『オープンダイアローグ』訳者あとがき

              
(日本評論社の御厚意により、『オープンダイアローグ』(日本評論社)のやたら長い訳者あとがきについても公開許可をいただきました。興味を持っていただけたら、本、お買い求めください。)

本書は、今精神医療の世界で話題となっているオープンダイアローグについて、その開発者が著者のひとりとなって書かれた初の書籍〝Dialogical Meetings in Social Networks〟の翻訳です。
 原題からもわかるとおり、本書はオープンダイアローグだけを取りあげたものではなく、主にオープンダイアローグと「未来語りのダイアローグ」(anticipation dialogue)というフィンランドで独自に開発されたダイアローグの手法について、ソーシャル・ネットワークの重要性という観点から書かれたものです。しかし、後者については日本ではまだあまり知られておらず、ソーシャル・ネットワークについても少なくとも精神医療や心理学の領域ではほとんど興味が持たれていません。そこで、オープンダイアローグに興味を持っている多くの人にこの本を手にとってもらい、その背景となっているソーシャル・ネットワークについても知ってもらいたいとの希望から、この翻訳書の題名をあえて「オープンダイアローグ」としました。   
【「ダイアローグ」の流行とオープンダイアローグ】
 本書でも著者たちが自ら指摘しているように、「ダイアローグ」という言葉は、現在ほとんど流行語になっています。書店のビジネス書の棚に行けば、ダイアローグ、対話を書名に冠した多くの本がならんでいます。国際関係のニュースをみれば、異なった宗教観をもつ国同士の対話が大切だとなどという言い回しが毎日のように聞かれます。もちろん、このような対話が役に立たないわけではありません。それまでのトップダウンの命令や勝ち負けを争うような議論ではなく、対話的な方法によって新しい時代に活路を拓いた企業経営の事例も数多くあります。(本書でもその「場」理論が引用されている野中郁次郎のベストセラーである「知識創造企業」(東洋経済新報社、1996)には、その実例が数多く載っている。)
 このようなダイアローグ論の基本的文献のひとつに、理論物理学者であるデヴィッド・ボームの「ダイアローグ」(英治出版、2007)という本があります。それによると、「対話」とは、自分たちがあらかじめ抱いている「想定」自体を問題にして行う会話だとされています。それによって「グループ全体に一種の意味の流れが生じ、そこから新たな理解が現れてくる可能性を伝えている。この新たな理解は、そもそも出発点には存在しなかったものかもしれない。それは創造的なものである。このように何かの意味を共有することは、「接着剤」「セメント」のように、人びとや社会を互いにくっつける役目を果たしている」というのです。その具体的方法としても、人びとが車座になって座ること、リーダーを置かず自由に発言するが、自由にするという不安に耐えることが必要だといいます。これは、ほとんどオープンダイアローグに近い考え方、やり方です。
 しかし、このような一般に流布している「対話」という考え方は、その多くがビジネス書に分類されているように、結局は組織の発展のために用いられてきました。つまり、効率性を求めるこれまでの資本主義的経営の行き詰まりを、対話という方法を用いて生まれるイノベーションによって打開し、資本主義のサイクルをさらに回していくための手段となっているのです。ここには、ビジネスがうまくいくことで個人的に報われる気持ちは持てるでしょうが、ひとりひとりの人生や生活の中に「対話」が生きて根づくことにはなりません。
 同じように、現代社会や精神医療の世界の制度的な行き詰まりを無視して、従来の制度のもとでの患者‐治療者関係の中にダイアローグの実践が留まる限り、それはこれまでも数多く試みられてきた精神療法の一種としてとどまるものでしかありません。そのような微温的な改革は、結局は従来の施設・精神病院体制の中に取り込まれてしまうのです。これでは、私たちの国で輸入思想や技術が辿ってきたこれまでと同じ道のくり返しにすぎません。(ただし、たとえそうであるにしても、現在のわが国の精神医療のレベルからすれば誰にとっても損のない、よいことではあるでしょうが。)    
 今現在、この日本でオープンダイアローグという言葉で語られていることには、「精神科医療システムとしてのオープンダイアローグ」と「オープンな態度で行うダイアローグ(オープンなダイアローグ)」という二つのものが混同されて使われているように思います。セイックラらの最新の著書では、このオープンダイアローグのふたつの面を意識的に区別し、後者をシステム外の日常診療にも取り入れることを進めようとしています。最近来日したフィンランドの実践者たちも、日常診療の中でのダイアローグの実践を「詩学としてのオープンダイアローグ」という呼び方で積極的に紹介していました。そのことも、日本でオープンダイアローグとは何かということについて、さまざまな立場の人たちの間に混乱が生じる一因になっているようです。しかし、これから受容し実践しようとする側にとっては、ふたつの面をしっかりと区別することが「オープンダイアローグ」の理解を深めていくために必要でしょう。
 システムとしてのオープンダイアローグは画期的なものです。その理由のひとつは、バフチンの「ダイアローグの思想(dialogism)」をしっかりと取り入れていることです。もうひとつは、フィンランドとその地域の全体の社会保障改革の成果にしっかりと結びついたシステムとして成立していることです。本書の原題が、私たちがこの訳書の題名とした「オープンダイアローグ」ではなく、「ソーシャル・ネットワークの中での対話的ミーティング〝Dialogical Meetings in Social Networks〟」であることが、そのことをよく表しています。
 要約すれば、狭義の「オープンダイアローグ」とは西ラップランドのケロプダス病院を発祥とする、精神病クライシスに対して24時間以内に組織されるチームにより患者の生活の場での治療的ミーティングを、各種の社会的ネットワークをまじえて継続して行うというシステムです。このシステムが必ず備えておかなければならないものを、著者たちは本書で7つの原則としてまとめています。オープンダイアローグが持っているもうひとつの側面である「オープンなダイアローグ」は、このような「システムとしてのオープンダイアローグ」の中で行われて、はじめてその効果を十全に発揮するのではないでしょうか。
【ミハイル・バフチンとその思想】
(バフチンの生涯について略)
 バフチンの多様で広範囲にわたる哲学の全体を表すのには、〝dialogism〟 という言葉が適当でしょう。しかし、本書でも随所に使われるこの言葉は、バフチン自身のものではありません。「‐イズム」という言葉にはイデオロギー的色彩が強いので、この本では「ダイアローグの思想」と訳しています。
 では「ダイアローグの思想」とは何かといえば、「プラグマティズム的傾向をもつ知識理論」であると言えます。この「ダイアローグの思想」を、マイケル・ホルクウィストの同名の著書(「ダイアローグの思想 ミハイル・バフチンの可能性」法政大学出版局、1994)に依りながら解説しておきましょう。
 私たちがこれからとりくむべきオープン・ダイアローグの実践にとっては、自己、他者、世界の関係の三項が重要です。しかし、この三項はそれぞれが独立して存在する実体ではありません。ダイアローグの思想がプラグマティズム的であるということは、それぞれがそれぞれの関係としてのみそのつど存在するということ、すなわち最初からどこかにそれぞれの「本質」なるものがあるのではなく、それぞれはその三項の関係がそのつどつくりだす「現象」であるということです。バフチンにとっては「自己」はダイアローグ的なもの、ひとつの関係、出来事なのです。私は私の自己を、他者はこう見るかもしれないと思い描きながら見ていきます。自己をつくり出すには外部からそうしなくてはならない、つまり、私は私自身の作者になるのです。そして、その私を作る材料は他者の側にあります。これは、プラグマティズムの祖のひとりであるGHミードの考え方とも響き合っており、本書でも頻繁に言及されるパースペクティブという言葉は、まさにミードの概念です。
 ダイアローグは、言表(本書の訳語では「発話」)、応答、その関係の三要素で構成されています。「私」はさまざまな他者とのダイアローグによって次第に自分自身の輪郭をつくっていく。「私」のパースペクティブでは私自身は見えない部分ですが、他者のパースペクティブは私自身の見えていない「私」を含んでいます。そのような他者からの見方に対して、私はそのつど応答することで次第に私自身を作り上げていくのです。他者は決して私の場所を代わることはできないのですから、私と他者の間に世界が構築されていくためには、私は私が存在に占める唯一の場所から生み出される応答に対して責任を負わねばなりません。こうして、世界=意味は、つねに共有された出来事として、しかも対話者間のあいだに(境界に)現れる(構築される)のです。
 こうしたダイアローグによってつくられる自己・他者・世界は、その関係の時空が違うごとに違ったものとなります。時間が経ち、場所が変われば、自己/他者の関係の別の配列がつねに生じ、その時の他者との関係で私の自己は異なる解釈を受けます。それゆえ、世界にはそれを求めて奮闘すべき単一の意味は存在しません。世界は競い合うさまざまな意味の広大な集塊、多様化するエネルギーを統合できる単一の語がありえないほど多様な異言語混淆(ヘテログロシア)なのです。
 また、自己や他者がたえざるダイアローグの連続によって成り立っているということは、完全なモノローグというものも存在しないということでもあります。このことはダイアローグ思想においては希望です。というのは、どのようにモノローグの応酬ともみえる会話や議論でも、つねに<対話>への芽を秘めているということなのですから。
 このようなバフチンの思想を踏まえれば、<対話>とは「みなさんで対話を行いましょう」と優等生がお行儀よく集まって行う学級会の話し合いのようなものではありません。本書でもしばしば強調されるように、<対話>への意志、自他の関係、世界との関係を<対話>へと変革していく意志こそが大切なのだとわかります。
 オープンダイアローグは、セイックラ自身も言っているように、このようなバフチンのダイアローグの思想に強く影響されています。というよりも、セイックラたちの実践が発展させられていくなかで、バフチンのダイアローグの思想と響き合い、とけ合ってきたと言ってよいでしょう。それゆえ、今後わが国でも進められていくであろう実践の中で、さまざまな迷いや混乱が生じたときには、バフチンのダイアローグの思想にしっかりと立ち返ることが必要だと思います。本書は、バフチンの名前をいちいち押し出さずとも、あらゆる記述がバフチンのダイアローグの思想を踏まえています。その意味で、じっくりと読み込まれるべき書なのです。
【フィンランドの社会的背景と精神医療】
(フィンランドの歴史と福祉制度 略)
 精神医療の改革については、他の国の改革の例にもれず遅れていました。しかし、1982年から1992年の間の精神保健医療分野におけるオープンケアの開発と施設ケアの縮小には、目覚ましいものがあります。具体的には、住民1000人あたり精神科病院ベッド数について、1982年、1988年、1992年はそれぞれ、4.1、2.9、1.9。住民1000人に対するオープンケア職員数は同年でそれぞれ、2.7、3.8、5.1であり、10年間で病院ベッド数が半減以上となり、地域で働く職員が倍増しています。  この改革は、同時に自治体間の地域格差の解消をめざしており、これを背景に西ラップランドでは1988年からオープンダイアローグの前身となるセイクラらの実験的研究が始まりました。つまり、オープンダイアローグは最初から脱施設化の一環としてはじまったものなのです。
 現在では、精神科ベッド数は1000人あたり1.0にまで減少しており、30年前の4.1という数字に比べると急激なベッド減少に成功したといってよいでしょう。ちなみに日本は、この同じ期間ほとんど変わらず、1000人あたり3ベッド程度で推移しています。また、フィンランドの精神科には知的障がいや認知症の入院はありません。いずれにせよ、オープンダイアローグの試みはフィンランドの福祉制度改革と軌を一にして行われてきました。時には、国が認める精神医学の公式な見解(治療ガイドラインなど)に反しながら進められてきたものであることがわかります。
 また、本書から知れる驚異的なことのひとつとして、フィンランドのポスト・モダンを視野に入れた社会全体の改革の中で、ネットワークということが非常に重視され各分野で進められてきたことがあります(未来語りのダイアローグにおけるファシリテーター協会の存在など。分野は違うが子育てにおけるネウボラの制度(高橋睦子「ネウボラ フィンランドの出産・子育て支援」かもがわ出版、2015)も同様でしょう)。これは、少子高齢化、核家族の限界化、家族制度自体の多様化、都市化と地域共同体の崩壊という現実にあわせて、それを補うものとして意識的に進められてきたものです。
 この点は、わが国の政府が「家族の復活」などプレモダンな戦前に回帰しようという夢にしがみついたままであり、あらゆる現実的改革をおざなりにしていることとは対照的なことだと思います。今後オープンダイアローグをわが国で実践しようとするとき、どのようにして彼我の背景の差を埋めていくかということが大切となるでしょう。
【オープンダイアローグについてのふたつの誤解】
 オープンダイアローグについてのよく聞かれる誤解の中に、オープンダイアローグとは専門家が専門性を捨てて当事者と平等に話し合うやり方であるということと、薬を使わないで統合失調症を治す治療であるというふたつの誤解があります。
 まず、前者の専門性に関する誤解について。もちろん、本書をきちんと読んでいただければ、これがまったくの誤解であることがわかるでしょう。実際には、専門家の専門性はかえって厳しいものとなっているのです。数年に渡る研修を受けるという研修体制自体の厳しさもそうですが、専門家と称される人びとがその専門性を決して相手を説得したり議論したりする形で使わずに、つまりモノローグ的にならずに対話に参加することの難しさが何度も指摘されています。また、専門家というものは、ふつうは専門性という鎧を被ることによって、相手とのかかわりで感情的に巻き込まれることなく済んでいるのですが、その鎧をはずしなさいというのですから、これはいかほどに精神力のいる〝技〟であることでしょうか。
 古来から脈々と続くダイアローグ論の文脈から言えば、ダイアローグにおける専門性とは、ソクラテスの言う「産婆術」のようなものでしょう。ソクラテスによれば、自分が無知であることを知るという人間にとって一番難しいことを身につけてはじめて、相手との対話が生まれるのです。ちなみに訳者は、この本に書かれた専門家の役割を読んで、仏教の修行でいう「往相」と「還相」という言葉を連想しました。専門家が専門家になるための勉強が往相であり、それを極めることは非常に厳しい道です。しかし、その困難の後に、ようやく身につけた専門性を脱ぎ捨てて衆生のもとに入っていくという還相があります。これこそが、もっとも困難なことなのです。
 また、専門性のもうひとつの相として、本書では権力性の問題もきちんと取りあげられています。著者らは人間関係に権力関係のないものはないというフーコー流の権力論を援用しながら、緊急時の対応やミーティングに参加するというそのこと自体への権力の行使が不可避であることを指摘しました。そして、そのような権力性は、ミーティングが進行して<対話>が生まれるとともに消失していくのだといいます。
 それは、そのとおりでしょう。しかし、わが国の精神医療の状況は、フーコーのポスト・モダンな権力論の適応できるところではありません。いまだに前近代の闇かと見まがうが如き、生身の身体への直接的権力行使、つまり暴力がまかり通っている世界であることも指摘しておかなくてはならないと思います。
 ふたつめは、オープンダイアローグが薬を使わずに統合失調症を治療する方法だという誤解です。これはまた、ふたつの意味で誤解と言えます。ひとつには、本書でも随所にあるように、オープンダイアローグは薬を使わないことを目的としているのではなく、薬を使うかどうかも本人を入れた対話によって決めていくのです。その結果として、薬の使用頻度とその量が驚くほど減ったということは確かです。
 これが誤解であるという二つめの理由は、統合失調症治療にとって薬は必要不可欠であるということは現在の精神科治療ではまったく疑いのないことのように思われていますが、実はこのこと自体がドグマ、思い込みにすぎないものであるということにあります。よく指摘されるのは、統合失調症の長期予後についての研究から、薬物療法が導入される以前から統合失調症はその3分の1が治癒する病気であったということです。統合失調症は、決して予後が悪いと一言で言ってしまえる病気ではないのです。
 さらにその経過をくわしく見ると、初回精神病エピソードについてはその多くが一度は寛解(回復)していることがわかります。つまり、現代の薬物療法が可能となる以前から、統合失調症の初回エピソードは、その多くが回復しているのです。つまり、初回の精神病エピソードを問題にする限り、オープンダイアローグという治療法が薬を使わないでもよい治療法なのだということを強調することは、ある種の過大評価だと言えるかもしれません。
 問題は、その回復がオープンダイアローグによる治療では、薬物療法よりも長く維持されているかどうかということです。これについても本書を読む限り、確かにオープンダイアローグを行ったときのほうが回復が持続しているようにみえます。現代の精神医学のコンセンサスでは、統合失調症の多くが服薬をしない場合に2年以内に再発しているというデータから、抗精神病薬は回復を維持するためにも必要だということになっています。
 ところが、一方で最近の批判的研究では、再発は実は薬物の中断による禁断症状が影響しているのではないかという意見もあるのです。このあたりの事情については、筆者が『統合失調症のひろば』という雑誌に最新の文献をあたってまとめているので、参考にしていただきたいと思います。(『統合失調症のひろば』 №1、№2 日本評論社 2012 ※FB上で私の別のノートにあげてあります)
【オープンダイアローグのめざすもの】
 したがって、これらの事情を虚心に受け取れば、薬物療法なしで統合失調症が回復するということは、決してオープンダイアローグによってのみ得られる奇跡ではありません。では、私たちにとってオープンダイアローグの成果がとてつもなく素晴らしいものにみえ、また、それを学ぶことが必要だと思われるのはなぜでしょうか。
 それは、一言でいえば、オープンダイアローグは統合失調症の人たちをふたたび共同体に包摂するということにあるのだと思われます。このような言い方が一方的であると誤解を受けるようであれば、私たちが統合失調症の人たちとの共同体づくりに参加していくのだと言ってもよいかもしれません。これは著者たち自身が、例えば「ミーティングで生じる新たな理解は初めから社会的に共有された現象となる」、「患者の人生に非常に重要な人たちとのあいだで、新たな理解をもつ社会的コミュニティーができあがる」と随所で言っていることです。
 発展途上国では統合失調症の予後がよいというのは、よく指摘される確立された事実です。発展途上国には、私たちの高度資本主義の論理が貫徹された社会とちがって、地域住民の共同体が残り、統合失調症の人たちにも一定の役割、居場所が残されていることがその理由だと言われます(リチャード・ワーナー「統合失調症からの回復」岩崎学術出版、2005)。オープンダイアローグはこれと同じことを、著者が第2章で描くポスト・モダン社会、リスク社会(ベック)のまっただ中に生み出すのです。それが、著者らがソーシャル・ネットワークを重視しているほんとうの意味でしょう。
 しかし、共同体というものは親密にコミュニケーションできる人たちの安心できる集まりであるとともに、そこから逸脱する人びとを排除することで成り立っています。ですからこそ自由を求める人類の進歩は、つねに共同体から解放されることをめざしてきました。現代社会は、そこからの解放を達成した面と、その反作用として個人のアトム化、孤立化を進めたという両面をもっています。その現代社会の負の面に注目して、昔あった共同体の復権を求めるとき、多くの人びとは家族にその原型を求め、共同体をそのような「原家族」を拡張したものとしてイメージします。社会共同体自体が、原家族を同心円状に拡張したものとして描かれるのです。
 しかし、現代の問題は、そのような家族自体が大きな葛藤を抱えており、家族の解体へと向かっていることにあります。社会と家族の間に挟まれる個人に対して、家族はかえってストレスの大きい存在ともなるのです。著者らの実践の強みは、彼らが家族療法専門家として現代の家族が抱えるそのような葛藤に焦点を当てて、さまざまな問題とかかわってきたことにあるのかもしれません。そして、そのような家族や拡大家族とのあいだに、専門家や市民のネットワークを持ち込むことで、現代的なネットワークによる互助の関係を家族関係の中にも持ち込むのです。その結果あらわれる「新たな共同体」は、原家族の共同性と市民の社会的共同性が相似形となりながら重なり合う構造であり、一種のフラクタル構造をつくりあげていきます。社会のほうは原家族的な親密な共同性を注入され、反対に原家族は社会的共同性を鏡とすることで、その拘束力や葛藤を緩めることができるのです(図を省略)。

 オープンダイアローグは、社会や医療によって「問題」として同定されるものに一方的に焦点を合わせるのではなく、自由に互いの語りを聴くことで<対話>を実践する方法です。このために必要なのは、当事者にとっても専門家にとっても、そしてかかわるすべての人にとっても、予期せぬものへの自由な構えです(「不確実性への耐性」)。これが可能となったとき、オープンダイアローグは、精神障がいを抱える当事者・家族にとって喜ばしいものであるだけではなく、この世界そのものを豊穣化していくものとなるでしょう。それこそが、オープンダイアローグを学び、日本でも実践を行うことの意味なのだと思います。
(中略)
 オープンダイアローグという森と湖の国からの贈り物が、あなたとこの世界を変えるための種子であり水であることを願って。

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