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酒と本の日々:ショシャナ・ズボフ「監視資本主義」(2021/2019)と、堤未果「デジタル・ファシズム」(2021)

【ショシャナ・ズボフ「監視資本主義」(2021/2019)、堤未果「デジタル・ファシズム」(2021)】
久々に大著を読み上げる。「監視資本主義 人類の未来を賭けた闘い」。抜群に面白く、多くの実例とそこから抽出された理論、そして時に扇情的で時に詩的な語り口は、確かにマルクスの資本論を彷彿とさせる。
 書名の邦訳が、Surveillance Capitalism をこれまででの慣例で直訳すれば「監視資本主義」なのだが、これまでの「監視」について書かれた書籍が、バウマンのものにしても国家の統治としての監視であり全体主義に直結することを批判していたのに対して、これは新しい資本のあり方の論理としての「Surveillance」であり、国家のイデオロギーとは別モノであるのだが、そのことが邦題からは伝わらず、いつもの監視国家批判かと思われて注目されないかもしれないのが残念である。ここでいう監視は、GAFAに代表される新しい資本が、人間の経験を行動データに変換して「行動先物市場」で取り引きするために、人々がネット上にあげる行動の余剰(人が意識せずに残していくネット上のデータの屑)を搾取し、それをもっぱら他者の商業目的に供する構造をさしている。その意味で、従来の産業資本主義が人間の余剰労働を合法的に搾取しそれを商品価値に変えてきた行動と相似形である。そして次第に力をつけたネット企業が、国家をしもべとして乗っ取り、社会の行動修正を自在に行うだけの力を持つようになった。その過程は、新自由主義が準備したものであることを歴史を追って検証している。したがって、それは国家のイデオロギーとしての監視とは別モノであって、たとえば「情報走査資本主義」とでも訳したのがよかったのではないかと思われる。
 監視資本とその道具主義(技術の発展は無前提に良しとする)の哲学的基礎をスキナーの行動主義に求めるところも、知的な興奮に満ちた検証がなされているし、スキナー流の人間の内面を否定する行動主義は確かナオミ・クラインのショック・ドクトリンにもその源流としてあげられていたのではなかったか。そのスキナーの現代の後継者であるペントランドの「ソーシャル物理学」の分析では、現代の科学技術至上主義者が抱く人間否定の典型が読み取れる。彼らにとって自律する個人とは単なる統計学的誤謬なのである。
 超スピードで成長し、私たちの日常生活の隅々にまで食い込んで、私たちにユートピア的な未来を幻想させる監視資本主義に、私たちは日常のホソボソとした利便性を与えられることで完全に降伏、服従し、その変革を諦めさせれている。しかし、そのようにして知らず知らずのうちに奪われているもの、私たちのホーム(奪われない聖域、主体性、個別性)という感覚を取り戻すことの必要性とその闘いの微かな兆候について書かれた終章は、これも資本論の末尾におかれたマルクスの共産主義の理想像と同じく、今は非現実的でいかにも弱々しい。だが、それでも著者は、私たちは今になって気づいたらこの監視資本主義にからめとられた世界にいた、反対のことが、今気づかぬうちに起こりつつあることを否定することはできない、それが希望であるという。
 この大部の「理論書」に対して、今、現実の日常生活の中に侵入している種々のデジタル化による私たち自身の情報に対する具体的な搾取の様相については、堤の「デジタル・ファシズム」もなかなか強烈な印象を残す。書名のように、こちらの全体の論旨は、デジタル化が国家の全体主義化に奉仕するという、ズボフの理論からみれば一昔前の情報監視のあり方であるが、私たちが日常から理解できるその脅威は、このような国家による統治として現れるしかないし、抵抗はそれに対してなされるしかない。
それはちょうど、コロナ禍への対応としての個人情報の統制は国家の意志として私たちの前に現れるが、その背後で、私たちの生体データがGoogleやアップルによって巨大なデータとして抽出され(搾取され)、それがビッグ・ファーマという顧客に商品として売られ、私たちはその商品(たとえばワクチン)の市場でしかないという、今私たちが被っている二重の搾取(情報ファシズム統治と監視資本主義の共謀)としての現れに対応しているのだろう。
両者をあわせ読むことで、私たちのまわりで起こりつつある資本主義と国家の巨大な変化を目の当たりに理解することができる。

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