9年経過した3.11

今日は日付が変わって2020.3.16。
コロナの影響で自粛ムードの中過ぎた9年目。
被災地出身で、実家は全壊してたりします。
あんまり重い感じで書きたいわけじゃないし、まして被災者代表を気取りたくもありません。
ただの元宮城県民の主観100%で今思うことを書いてみます。

当時は大学1年生から2年生になる春休み。
ちょうど帰省していたものの、たまたま仙台にスノーボードをしに行っていて、実家にはいませんでした。
それがどうやらラッキーだったくさい。
今こうしてnoteを書いているのはあの日家でお昼寝をしていなかったおかげ。

当時横浜で一人暮らししていたんですが、家族は幸い無事だったものの、市役所勤めの両親は全く帰ることができず。そもそも帰る家が全壊してるから帰る場所がないんですけどね。
全壊とは言うものの、家自体は残っていたので、そこをリフォームするまで、近所に住む祖父母とともにアパートを借りて住んでました。
そんな地元の状況があって、家族が大変なことは知っているのに、自分は横浜で普通の大学生活を送っていて。会う人ほぼ全員から「実家大丈夫?」と聞かれるんです。毎回「全壊だった」と言うとそこで初めて「えっ…」と表情が引きつり、家族の安否を確認される。
質問してくれた人たちはその質問の向こう側に「家族全員無事だったよ」以外の回答があることを認識してたのだろうか。
いまだに僕はそれ以外の回答が返ってくることが怖くて、「大丈夫だった?」の質問ができません。

自分は被災した地元に残って片付けをしたり大変な思いをしていないのに、横浜にいると被災者扱いされて心配されて。そのギャップに苦しんで、心配してくれた人たちに悪気がないことも十分理解していたんですが、そのやり取りをすることも嫌になってたのが被災した直後2年くらい。
今考えてみれば、心配してもらえること程、ありがたいことはないのに。

でもね、社会人になって自分よりも圧倒的に社会的に地位がある人とお話をして、その感想を素直に伝えたときに、「全然気づかないで質問してた。教えてくれてありがとう。」と言われたことがありました。
そして数年経った後にもそのエピソードを語ってくれていて。
なんか救われた気がして、そこから「大丈夫だった?」の質問が嫌じゃなくなっていった気がします。
今振り返ってみると、自分もれっきとした3.11に苦しめられた1人でした。

正直9年も経つと、当時の状況とか光景とか街の空気感とか鮮明に覚えているシーンは減ってきます。
あれだけ自分と大切な人たちが生きていることに感謝して、必死に生きていたはずなのに。
好きなことに挑戦できていたり、毎日サウナを巡ったり、美味しいものを食べたり、そんな時間を共有できる人がいること。地元に帰れば家族が元気に過ごしている。
今の生活があることが当たり前になって、当時を振り返ることすらパフォーマンスに思えてくることもあります。感謝している風な自分が綺麗事を並べてるだけに思えちゃうんです。
でもこれに関しては綺麗事でよくないですか。
そこさえ割り切れれば、心からちゃんと、今あるものに感謝できる気がします。何より認識することが大事。当たり前のものほど認識しづらいものはないから。

東日本大震災は名前がついて3月11日になると毎年思い出してもらえるからまだよくて、台風で河川が氾濫して流されることだって現象は変わらないと思うんです。これからも震災は起こります。そんな時、心配する側、心配される側、どちらも思いやれる、自分がそんな大人になれていたら嬉しいですね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?