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感覚派と理論派の狭間で

スポーツの世界において、感覚派と論理派が存在していたと今振り返ると思う。

感覚派はどちらかというと天才肌のような印象で、論理派は頭で考えてそれを実行に移しているような印象だった。あくまでも学生時代の印象だ。

そして私は間違いなく後者になった。

感覚派の発言は、私にとって理解し難い。

感覚派の発言は、言語へと昇華する力が劣っているという部分も否めない。なぜなら論理的に説明する必要がそもそもないからだ。

周りができずに苦心しているところを感覚の繰り返しで乗り越えてしまう。「いつの間にか」できてしまっているのだ。

そして周りから教えを乞われても、なんとなくできてしまった(言葉にできないだけだが)ので教えることもできない。

この感覚派の動揺を見ている周りは、
「何も考えずにできてしまうこいつは天才だ。天才の言うことはわからない。」と結論づけてしまう。なんとも勿体無いことだろうか。

しかし、感覚派も困っているのだと思う。わかりやすく説明できないだけで天才の烙印を押されるのだから。そしてまだ周りが理解できる説明のできる論理派が大多数を引っ張っていく。

ここで明言しておきたいのだが、「感覚派≠天才」ということだ。


感覚派の中にも論理は存在する。感覚派が何も考えずに技術を習得するわけではない。我々が理解できない領域があることは事実であり認めざるを得ないが。

感覚派は少数派と思われるかもしれないが、全くそんなことはない。むしろほとんどが感覚派であろう。

我々は、もともと感覚に頼っている。スポーツにおいて自分の感覚のみで通用しなくなった場合(工夫しなければならなくなった場合)に、意識的に考えるようになる。

それこそが論理派への第一歩だ。身体で理解できなくなったので、脳による思考という違う方向性からの理解を計ろうとする。

つまり、感覚派同士の戦いに負けてどうしようもない壁にぶつかり、更に高みに登ろうとする感覚派は論理派へと変容するのである。

ここで感覚を貫くものは、敗北した感覚を使い続ける感覚派だ。本物の感覚派とは縁遠い、ただの自己流である。


オリンピックの試合後のインタビューについても言及したい。


オリンピックまで登り詰める選手たちは、類稀なる感覚派だ。我々が体得しえない技術を感じとることができる。論理派が何万時間とかけることを何百時間で体得する。そして身体の使い方も相まって怪我をせずにスポーツを継続することができる。



これを世間一般的に才能というのだろうか。


ちなみに、すぐに「天才」や「才能」でくくってしまうのは退廃した感覚派である。もしそこにいるのであれば一刻も早く脱却した方がいい。


そこにいるのは自分限界を決めつけ、自らの牙を磨くことを疎かにした愚かな評論家だ。



オリンピック選手たちの感覚は、共通認識なのではないかと感じている。なぜならインタビューで使用される言葉が似通っているからだ。


そしてそれは我々が聞いても「わかった」気分にさせられるものであり、しかし実行に移したからといってオリンピック並みの成果が出ない。まさに感覚派である最たる所以だろう。


もっとコアな言葉で、自らのイメージを具象化して表現してもらっても構わないのだが、きっと今までの人生の中で「伝わらない経験」を積み重ねてきたからこそ、皆がわかったような気になる言葉をうまく使っているような気がしている。


論理派の私は、特にこう思うのである。

感覚派の論理を説明してくれ、と。


たとえ稚拙な表現でも、感覚派の世界でのみ通用する言葉でも構わない。それを我々に見せてくれることに大いに価値があるのだ。

感覚派の苦しみも私は知っているつもりだ。

理解されない苦しみと、「天才」「才能」と自覚し得ないレッテルを貼られることも加味しても、感覚派の思いを伝えていかないと論理派や脱感覚派が立場を変えることはない。


感覚派と論理派はスポーツの世界だけではない。

日常生活でもだいたい二分化される。

自分がどっちの人間かは、スポーツへの取り組み方で判断してほしい。ほぼ当てはまるはずだ。


論理派は感覚を言語へと変えてわかりやすく表現する。そして効率主義で現実主義、証拠やデータを基礎とする。誰でもわかる言語という媒体を使うことで理解者を増やしていく。

感覚派は感覚を芸術やスポーツを媒体として言語ではなく身体で表現する。感覚派のみの独特な世界観を持つ。考え方や捉え方が周りよりも一層個性的だが感覚派同士の共通認識はある。


この論理派と感覚派が混ざり合うことで、驚くべき化学反応が起きるのだが…。まだこの社会は感覚派を受け入れる器ができていないのではないだろうか。

自らの利益を優先し、効率化を求め続ける。官僚や政治家に感覚派がいるとは到底思えない。論理派が支配するこの世界の中で、感覚派ができることは一体何なのだろう。

あとがき



この話題は、ある声優とイラストレーターと話した時に心にこびりついたものである。これをスマホにメモしている姿を見て、先輩が「お前は論理派だな」と言ったのがきっかけだ。

昔から感覚派と論理派の考えは自分なりにあって、スタートダッシュが早いのが感覚派で、最後に勝つのは論理派だと思っていた。

そして自分を「感覚派だ」というものは「頭で考えることを放棄した」ものだという見方すらもあった。

今はどうだろうか。

感覚派は研ぎ澄まされた世界の見え方で物事を判断し決断している。
論理派も物事を筋道立てて自分を納得させてから行動に移す。
どちらにも属さない人だっているだろう。


少なくとも感覚派ではないという自覚のある私は、感覚派の人と手を取り合い、新しい世界を見たいと思うのである。



感覚派の世界を感知できないと知っておきながら。

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