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『飛ぶ教室』を読んで


子ども文学を子どもの頃に全く読まずに今まで進んできた。社会的に「おとな」といわれる年代になってから、本をすこしずつ読むようになってきた私だが、今回の本では「子ども」と「おとな」についての気づきがあった。


「子どものなみだはおとなのなみだより小さいというものではありません。」


「不幸にあっても、くじけないことです。
へこたれるな、不死身になれ。」



「かしこさをともなわない勇気はらんぼうであり、勇気をともなわないかしこさなどはくそにもなりません!」


筆者エーリッヒ=ケストナーが冒頭にこのようなインパクトのある言葉を遺していた。上記の3つは私にとって印象深いもので、人によって感じ方は違うであろう。子どもを後押しする言葉のはずが、おとなの我々が読んでもリフレクションが生じる言葉なのだ。


考えさせられる言葉や、「深い言葉」、含蓄のある言葉や名言…。


それらはもともと成っていたわけではなく、我々の認識によって印象深い言葉へと成っている

その点は心に留めておきたい。


この物語は、5人の生徒が学校生活の中で様々な出来事を体験していく物語だ。日常の中に人間関係のしがらみがあったり、青少年の葛藤があったり…。そんな中、2人のおとなが彼らを見守り、時にアドバイスを求められ、時に諭す。

そんな「血も涙もある」ストーリーであった。



さて、本の中で印象に残っているエピソードが二つある。それらについて書き記そうと思う。


一つ目は、ウリーのパラシュート降下についてだ。

貴族出身のウリーは、体が小さくて気が弱く、自分に勇気がないことをいつも悩んでいる。そんなウリーが自分を変えるために、こうもり傘を使ってパラシュート降下を試みる。

運動場に集まった人々に、ウリーはパラシュート降下を宣言し、飛び降りるのだが…。傘の空気抵抗が人を支えられるはずもなくウリーは大怪我をし入院することとなる。

もちろん友人たちは病院に駆けつけ、ウリーのことを心配し、後悔もするのだが…。


まさにこのウリーの行動を、私は尊敬する。
危険を犯すという点ではない。

自分を変えようとして行動に起こした点

である。

自らの弱点である「勇気のなさ」を払拭しようと日々考え、それをコンプレックスであると捉え、自分の弱みを覆すために行動した。

物語の中では、ウリーは勇気あるものと学校の皆から称賛された。
ウリーが病院で意識を戻した時、友人も後悔と安堵の涙を流しながらウリーを称えたのである。

結果的にウリーは自分の心の弱みを克服し、前向きに進んでいくのだ。

もちろん危険な行為をしたことを褒めるつもりはない。

だが自分の中のモヤモヤをどうにか解決しようとしたその過程を、私は評価したい。



人間にはそういう瞬間があると思う。子どももおとなも関係なく(特に今回はそういう話だ)、自分の中の葛藤を払拭するために奇行に走ることだってあるのだ。


もちろんそれが犯罪行為になってしまってはよくない。

だが、人にはそれぞれ考えがあり人生がある。葛藤を乗り越えるために色々な過程がある。


それを頭ごなしに潰してはならない。

過程を潰してはいけない。

助けを求められた時や、自分が助けられるギリギリまで、葛藤の中に残すことが大切なのだ。



これは、子どもの「自律」にも関わると思う。我々の抑圧の中で生きている彼らが、解放される場面は多くあるべきだ。

社会の波に曝される未来で、どうやってその波を楽しんで越えていくのか。

それを見つけるのが「自律」ではないだろうか。



二つ目は、正義先生と禁煙先生だ。

この2人は生徒たちから絶大な信頼を得ているおとなだ。作中でも生徒の心の拠り所となっている。
作中で明らかになるのだが、彼らは同級生だ。そしていうのである。


きみたちの子どものころを忘れるな


子どもから信頼を得るおとなは、一体どんなおとななのだろう。この1ヶ月、すごく考えさせられた課題である。


この本を読んで思ったことは、

「子どもの頃を強く覚えているおとなを信頼するのではないのだろうか。」



である。



「子ども目線」という時点で、すでに「おとな目線」だ。

それは仮初の姿でしかない。

私もそういう意味では「おとな目線」になっているのであろう。


ブログを書いていると、さまざまなことに気付かされる。子どもから信頼を得るおとなの定義はできないまま、もやもやを自分の中に残しながら、今回は終わりとしよう。

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