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平和構築とは答えのない答えを探し続ける営み?

みなさん、こんにちは。ウクライナ、大変なことになっていますね。私はエチオピアにいて毎日ネットニュースで状況を追っていますが、日本ではテレビでも連日報道がされているのではと想像します。

最近、平和構築について久しぶりに対面で語り合う機会があり、平和とは何なのか、そしてそれを構築するとはどういうことなのか、文章を綴りつつ考えてみたく思います。

そもそも平和とは何なのでしょうか。それは人によって違うかもしれませんし、もしかすると世界中の人に聞いて回るとパターンが見つかるかもしれません。ウクライナのような情勢をずっと追っている方は戦争がない状態というかもしれません。または、「犬が吠えていない夜」や「赤ん坊がお腹を空かしていない」などと等身大の答えもあるかもしれません。

「平和」という言葉は、全てかどうかはわかりませんが、大概、他言語にも存在する言葉と言われます。それだけ人類に共通して埋め込まれた感覚であるということができるでしょう。さっとネットで平和の定義を調べてみると、1:戦争や紛争がなく、世の中がおだやかな状態にあること。また、そのさま。「世界の―を守る」、2:心配やもめごとがなく、おだやかなこと。また、そのさま。「―な暮らし」と教えてくれます。1番は戦争や紛争がない状態を表しているのでわかりやすいと思います。では2番はどうでしょうか?心配や揉め事がなく、穏やかな状態かどうかはある意味個人個人の文脈に当てはめてみないと判断のしようがありません。Aさんの悩み事はBさんの悩み事と同じとは限りません。

平和学の父と呼ばれるノルウェー出身のヨハン・ガルトゥングは「消極的平和」と「積極的平和」という2種類の定義を提唱しました。消極的平和とは、物理的な暴力がない状態です。平たく言い換えると、戦争や紛争で人殺しがされていない状態ですね。彼はこれを直接的暴力がない状態とも言います。一方で積極的平和とは消極的平和よりさらに踏み込んだ定義になります。どういうことかというと、社会の構造的な問題のせいでその人の本来の可能性(ポテンシャル)が十分に実現されていない状態です。これをガルトゥングは構造的暴力や文化的暴力がない状態ともいいます。つまりこれはある意味で世界中どこの社会でもあり得る話で、人類永遠の課題とも言えるでしょう。

しかし、より優先順位の高い積極的平和というのがあるかもしれません。それは消極的平和をも失ってしまいかねない社会の場合です。例えば南スーダンで停戦協定が結ばれたとしましょう。しかし、水や食料などの持続可能性な供給方法、庶民が資源を確保する方法などが確立されておらず、限られた資源を奪い合うような状態が実質的に続いているとすれば、根本的な原因が解決されたとは言えないかもしれず、ちょっとしたきっかけで武力衝突が発生し紛争状態に戻ってしまいます。日本では、貧富の格差、難民、ホームレス問題など様々な問題があり、それぞれ切実な社会問題ではありますが、それが原因で人々が銃をとり反対勢力と戦争をして、一般市民を巻き込み、街を破壊することはありません。そんなことをしてしまえば、助かったかもしれないホームレスも助けることはできません。

つまり、積極的平和は消極的平和が確立されていなければ非常に実現しづらいので、消極的平和を守るために優先順位が高くなる積極的平和の実現があるといえるわけです。消極的平和の運命が掛かっている積極的平和ですね。一応付け足しておくとそれぞれの人の苦しみに大小があると言いたいわけではありません。ガルトゥングが提唱する理論のもと私の考えを述べさせて頂きました。

では、どうすれば消極的平和から積極的平和に持ち込んでいくことができるのか。そもそも誰が「平和構築」をするのか。議論を展開できればと思います。まず、第一段階、人生ゲームの第一コマ目の話をしてみましょう。人々が銃を持ち、走り回り、殺し合い、一般市民は、レイプの被害、強奪、建物や財産の破壊に怯えながら、巻き込まれないよう遠くに逃げるか隠れるか武装勢力の味方につくかを迫られるかもしれません。その選択肢さえも持つことができない状態の人もいるでしょう。戦争はほとんどの人から選択肢を奪ってしまいます。この状態で消極的平和に近づくわかりやすい事象は軍隊を指揮する指導者どうしが、戦争を止めますという協定を結ぶことです。これはわかりやすい例えの話になってしまうでしょうが。

ここにきて初めて平和を維持するための軍隊を送ることができます。国連平和維持軍がある意味この役割を果たすと言えるでしょう。武装勢力と民間人の間に武装勢力を送り込み情勢を見張らせるのです。平和維持軍の有効性については色々議論があると思いますが、ここでは深入りせずにいたいと思います。さて、線引きをざっくりするのであれば、「平和」を「維持」するまでが軍隊ができる平和構築の参加だと考えます。その先の「構築」は非軍事の出番であると考えます。

具体的には何が重要なのでしょうか。上述したように、戦争や紛争は根本原因が解決されていなければ再発してしまいます。それが資源なのかインフラなのか、政治権力の均衡が取れた状態なのか、これらの組み合わせか、または全部か、ケースバイケースだと思います。基本的に原因が一つということはありません。そこで社会の「構造的」「文化的」部分にメスを入れていく必要があるわけです。

ここまで、言うが安し、かもしれません。理論上はそうなるのですが、現実はそう甘くなく、様々な要因が複雑に絡まり合い、変化を続けます。これをcomplex theoryという理論のもと説明する平和紛争学の研究者もいます。平和構築には包括的なアプローチが不可欠で、一つの方程式で解くことは不可能なのではと考えます。そう言う意味ではブルドーザーで全てを一気に積極的平和側に押し出すことが平和構築の一番手っ取り早い方法なのかもしれません。しかし、私たち人類は、右向け右で一斉に右に向く存在ではありません。当たり前ですよね、みんな違うんですから。それが創造の根源で、私たち人類の素晴らしさでもあると思うのですが、これが平和の妨げになるのは全く皮肉なことです。もしかすると平和構築とは究極的には答えのない答えを探し続ける営みなのかもしれません。ゴールは見えないが決して怠ってはいけない営みとも言えるかもしれません。結局この営みもある意味、創造の一部なのかもしれませんね。破壊と創造は紙一重なのかもしれません。(急に哲学的になりました笑)

端的ではありましたが、ここまで読んでいただきありがとうございました。読者様の思考を活性させる読み物であれば幸いです。平和構築についてもどこかのタイミングで書き始められたらと考えていたので、徒然なるがまま書き記してみました。考えや意見などありましたが、是非コメント頂ければと思います。ありがとうございました。

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