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キリスト教|イエスて誰なん

「キリスト教があるのは知ってる。」「ほら、クリスマスのさ…」「イエス?キリスト?がさ…」「十字架のね….??」という人向けです。

書店で「イエスとは何者か」なんて本を読んじゃうと、むしろ難しいこと書いてたりしますが、こちらはそんなんじゃないです。ですから、まぁまぁ知っている人には中身の無いほどスカスカ、下手したら反論さえ来るかもしれません。はじめの一歩です。

さて、下に書いたのは使徒信条、ミサでは信仰宣言として唱える文の一部です。つまり、信者が何を信じているか述べるものです。

主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、
ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、
十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、
三日目に死者のうちから復活し、
天に昇って、全能の父である上の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。

カトリック教会の教え(2003)日本カトリック司教協議会、p40

6行でまとめていますから、これが最高の要約でしょう。
この文をもとに「イエスって誰?」を見ていきます。

主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、

主とは、イエスさんです。「イエス」という名前です。マリアはお母さんです。聖霊は、神様のはたらきみたいなものとしましょう。みなさん思い思いの姿でいいです。マリアさんは結婚していますが、処女(おとめ)のまま妊娠し、出産します。これが引用一行目の話です。

マリアさんは普通の人間です。普通の人間から生まれたので、イエスさんも、もちろん普通の人間としての面もあるし、神様の子供という普通じゃない面も持ってる訳です。

さて当時、現地の宗教では、民を救う人がいつか現れると信じていました。ある人々は、イエスさんを救い"主"だと確信します。救い主を現地語で「キリスト」といいます。そこで、「イエスさんが救い主だ教」として、キリスト教が成立していきます。「イエス・キリスト」という呼び方がすでに信者としての信仰宣言な訳です。

ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、

ポンティオ・ピラトは当時の君主、王様みたいなひとです。

イエスさんは、「僕のパパは神だよー」、「みんな救われるよー」、「僕についてきてー」と言って回ります。奇跡なんかも起こします。

「イエスさんが救い主だ教」がいる一方、「イエスさんが救い主なはずない教」の人からすれば、そんな考えは神の冒涜もいいところです。もちろん当時は圧倒的に後者が主流です。

そんなわけで、学者やら民衆やらは迫害を続け、「イエスは死刑だー!!」と騒ぎ立て、君主であるピラトは(しぶしぶ)その通り判決を下します。

十字架につけられて死に、葬られ、陰府(よみ)に下り、

イエスさんは十字架刑に処されます。十字架刑は、縦横の木に、釘で体をつける処刑です。体を刺され、そこに体重がかかり…。あぁ痛い。
こうして、イエスさんは死にます。ちゃんと人間です。墓に埋められます。

信者も、「えぇ、神の子死んだやん…」「本当は救い主じゃなかった?」と不安げ。

三日目に死者のうちから復活し、

しかし、後日墓を見てみるとなんと遺体がない!なんてことだ、遺体まで盗むなんて、やめてくれ….
そう思った矢先、一人の男が声をかけます「悲しむな、ボクはここだよ。」

そう、確かに死んだイエスさんは生き返ったのです。ちゃんと釘の痕まで付いて。そして、信者たちはやっと「ああ、やっぱり救い主だ」と確信するのです。

神の子なら死なんでもよかったやん。とも考えられますが、神様に対しての捧げ物(普通は羊などを屠る)として自ら命を捧げることで人々の罪のあがないとし、復活して死に打ち勝つ救いの存在を示したと考えられます。いわば、部下のミスについて先方に謝る、そしてその案件を部下が大成功させるように導く、デキる上司の最上級版ってことです。

天に昇って、全能の父である上の右の座に着き、
生者と死者を裁くために来られます。

復活したイエスさんですが、すぐに地上からいなくなります。そして、パパ(神様)と共にいます。キリスト教では、この世界にいつか終わり(終末)が来て、新たな世界が始まると考えています。その新しい世界に行けるかどうかを決定するのが、イエスさん(と神様)です。

じゃあ今何してるの?といえば、教会や人々の輪の中にいます。人として地上にいた時と同様に、「僕のパパは神だよー」、「みんな救われるよー」、「僕についてきてー」そして「みんなの罪許してもらったからー」と言い続けているのです。


以上、みなさんにとって、イエスさんの事がすこし身近になったら幸いです。

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