見出し画像

なぜ自分が死ぬことについて考えるのかについて考えてみた。

なぜ、私はまだ両親も健在なのにこんなに終活とか死への準備をすることに引っかかるのかなついて考えてみた。

アラフィフ女子3名で呑んでいた時のことである。

ひとりはおふたりさま夫婦、私もおふたりさま夫婦(しかも旦那外国人)、もうひとりはおひとりさま未亡人。

「大事な人が亡くなって、自分も死ぬかもしれないって思わないと何をすべきかなんてわからないよ・・・」と自分自身も乳がんと診断された経験のある未亡人が言った。

確かに、私は大事な人を直接亡くしているわけでもないのに、なんでこんなに死への準備に執着するのだろう。

たぶんそれは母親の気持ちが乗り移っているからのような気がする。それはまるで生き霊のように、その事について話し合ったことはないけど、私は母の気持ちを汲み過ぎてしまっているからだと思う。

うちの母は一番最初の娘(私のお姉さん)を生まれてすぐ亡くしている。そして、その次の私は生まれもって心臓に欠陥があった。そして、私の後に生まれた弟も脳性小児まひと診断された。(これは後に違っているとわかった)

次々と生まれてくる子供たちが生きられなかったり、障害が合ったりと親戚の風当たりは強かったと思う。

今のように充分な情報も得られない中、私の病気を治してくれる病院やお医者様を探しては、九州やいろんなところに1歳に満たない私を連れて行ったりした。

今だから、その時の親の気持ちがわかる。20代半ばの若い夫婦にとって、そうやって病院をさがしてあちらこちらに行ったり、入院や手術をさせるのは精神的にも経済的にも大変だったと思う。もし自分が同じ立場だったらそこまでできただろうか?

幸いにも同じ関西圏の奈良で良い病院、お医者様が見つかり、手術を受け、今私はこうして生きている。大きくなるにつれ胸の大きく残る手術痕を呪ったこともあったけれど、それが私の生き方を慎重にさせて、今では良かったと思える。

そんなこんなでやっぱり私は母をなくすことがこの世で一番恐れている事なんだと思う。だから、そのためにいろいろ気持ちの準備をしているのだ。

だから死について考えるのは自分事ではない、自分を生かせることに一生懸命尽くしてくれた母が自分の生死を握ってくれてもいいような気がする。

何か訳がわからなくなってしまったが、そんな感じ。

だからといって、私は決して親孝行ではない。

たぶん、ずっとこのままだと思う。

でも、強い母に守られて神よりも仏よりも自分を信じることを教えてもらったことには感謝をしている。それが伝わればいいな。




サポートいただけたらオリジナルのライフログファイル(エンディングノート)の制作に役立てます!