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 怖がる、ということについて少し触れてみたい。怖いという感情は、否定的な感情である。当然、外敵からの危険回避のために備わった重要な感情であり、夜道を一人で歩くときに警戒することで、なにかのトラブルから逃れようとするのは怖いという感情があるからである。生命維持にとって重要でありながら、できれば感じたくない感情のトップスリーにランクインするであろう。怖がる度合いについては、人それぞれで、お化け屋敷に行っても怖がらないでどんどん進む人もいれば、足がすくんでしまう人もいる。

 私の友人に極度の“怖がり”がいる。彼は40代半ばの東京のサラリーマンである。大手広告会社に勤務しており、仕事で全国を駆け回り、多くの人脈を持つ優秀な社会人である。彼との思い出にこんなエピソードがある。

 十数年前、とある休みの日に、東京お台場の娯楽施設でイベントの企画が開催されていた。それは映画「ターミネーター」のアトラクションであり、迷路のような通路を進んで、持っている銃でターミネーターを倒す、といった内容だったと思う。そんなアトラクションに、かの友人を含む仲間4~5人で入ったことがある。娯楽施設の広い敷地に、パーテーションで区切られただけのような建付けとなっていて、子供だましと言っては失礼だが、企画イベントだけに設備や演出も即席の感が否めないものであった。もちろん、メインのターゲットは子供であったであろう。まず入り口で、インカムとレーザー銃を装備したレジスタンス役のスタッフから、進み方やゴールの仕方などの説明を受けた。なにしろ密閉空間でもなく照明も音も外と混じりあっている会場である。ターミネーターの世界観を完璧に再現できるはずもないのだが、スタッフはなんとかこれに没入してもらおうと、懸命に演技をするのだが、そのギャップが可笑しくなってしまう。私たちはふざけ半分で説明を聞き「ターミネーターを倒そう!」などと意気込みながら進んでいった。ほどなくして、最初の角からいきなり何者かが飛び出してきた。一瞬ビクっとしたが、私はすぐに説明をしてくれていたスタッフだと気づいた。彼は「さあ!頑張って倒しに行きましょう!ここから私が先導します!」と言った。こちらは少し驚きながらも、お、おう!と応じた。少ない人員でアトラクションを回すためには一人で何役もこなさなければならない。受付から中の案内まで、いろいろ大変だな、そんなB級らしさに一瞬、笑いさえ込みあがった。しかしそのとき、かの友人は、2~3歩後ずさりしたあと、膝から崩れるようにあお向けにゆっくりと倒れていった。まるでスローモーションを見ているかごときゆっくりとした動作で(私の記憶では少なくともそうだ)膝、腰、上半身と順番に地面に落ちていったのである。つまり彼は腰を抜かしてしまったのである。彼は本物のターミネーターが襲ってきたのだと思ったのであろう。まだアトラクションはスタートすらしていなかったのであるが、スタッフによる最初の説明の段階で、彼だけはこの世界に没入していたのである。私は「腰を抜かす人」をそのとき初めて見たのだが、思ったよりもかなりゆっくりと、絵に描いたように砕けていくさまを今でも鮮明に思い出すことができる。他のメンバーもそれを目の当たりにして、その場は爆笑に包まれた。
 その後どんな展開で、どのようにターミネーターを倒したのか、私は全く覚えていない。とにかく、私にとっては、人が腰を抜かす瞬間というものを見ることができた貴重な経験であった。10年以上経った今でも、仲間内で久しぶりに会うと必ずといっていいほどその話で盛り上がる。

 さて、彼のように腰を抜かすくらい怖がりな人と、私たちとの違いはなんなのだろう?

 その友人は桜並木が美しい住宅街の通り沿いに建つおもちゃ屋の息子として育った。子供のころからおもちゃに囲まれ、たくさんの遊びの中で育った。彼はサラリーマンだが、休日には実家の店に立ち、子供たちのためにミニ四駆のコースを作ってあげたり、遊びのイベントを開催したり、店を手伝うこともしている。当然、子供たちとの遊び方もうまい。同世代なら共感できるかもしれないが、ガンダムが好きで、彼はほとんどすべてのテレビ番組や映画を観ているし、当然、プラモデルも沢山作っている。彼はまた、「ドラえもん」の漫画やアニメが大好きで、映画が封切されると必ず観に行っているという。私も一度だけ誘われ観に行ったことがある。子供がたくさんいる中で、おじさんが二人で観に行くことに抵抗を感じたものであるが、彼はエンドロールで泣いていた。そんな彼と人生や家庭の話をしていると、人を思いやり、家族や友人を大切にする澄んだ心が見えてくる。きっと彼は物事を素直に受け入れ、空想する力が強いのだ。

 そんな彼だから、建て付けがチープなB級(っぽい)アトラクションでもすぐにその世界観に入り込むことができ、物陰から現れた何者かをターミネーターであると思い、大きな恐怖にかられて腰を抜かしたのだ。私はそのアトラクションをどのようにクリアしたのか、残念ながら覚えていない。彼が腰を抜かす様だけが強烈に記憶に残っているせいだともいえるが、そもそも私のように鼻からバカにしたような態度をとる人間は、コンテンツを面白がるという能動的な意識がないから、記憶に残るはずもないのである。一方で彼はターミネーターを倒したときの喜びや感動を決して忘れていないだろう。アトラクションを誰よりも楽しめたのは、まさしく彼なのだ。

 巷のお化け屋敷ではたまに、「こんなもの作りものだ」などと言って、平気で出て行ってしまう人がいるが、そんな人は(私も含めて)貴重なお金と時間を無駄に使っていると言わざるを得ない。現代の日本において、しかも安全性が高い次元で保障される娯楽施設において、本気で「怖がれる」というのは才能である。成長して、大人になっていくにしたがって、このような「楽しむ秘訣としての怖がり」を自らが否定していってしまうことには寂しささえ覚えるものである。

 さて、私が運営する「妖怪美術館」においても、親子連れが入館しようとする際に、子供が怖がってギャン泣きすることがある。泣きわめく子供の存在は、美術館にとって基本的には迷惑な存在である。一方で、泣きもわめきもせず、淡々と入館していく子供もいて、こちらは有難い存在であったりする。でもそれで良いのだろうか?とたまに考えるのだ。泣きわめく子供は、だれよりも想像力が豊かで、これから経験するであろう、恐ろしさに本気で押しつぶされそうになっているのだ。まだ何も見ていないのに、である。美術館の入り口には怖い演出もないし、受付のスタッフもごく普通の対応である。それなのに、これまでの人生経験や入り口で感じるナニカについて、頭をフル回転させ、これから起こる出来事を想像しているのである。

 怖がる人はつまり、平和ボケなどと言われている日本において「怖がれる」という秀でた才能の持ち主である。彼らはその想像力や空想力によって、自らの人生を豊かなものにしているのである。

 怖がる、という感情に近いものに、「人見知り」がある。タレントのタモリが人見知りを相談されたときに、『人見知りは“こうしたらこう思われるかも”って身動きできなくなっちゃうけど、それは他人の事を人一倍よく考えているということ。だから一歩踏み出すだけで誰よりも人を豊かにできる。人見知りは才能だ。』と言ったそうだ。

 そう、人見知りも怖がりも才能なのだ。

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