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目は口ほどにものをいう。心はビデオほどに直視をできない。映画『PLAY 25年分のラストシーン』 感想20201023(日記)

こんばんは!コダカです。

なんだか仰々しいタイトルになってしまい恐縮ですが、
今日はさっき見たオンライン試写会について書こうかなと思います。

コロナ禍で試写会に行く機会が減りました。

やっているのかな?
やっているにしてもマスコミ試写とか相当絞った人数でやっているのでしょうね。

それに代替えするものとしてPCで鑑賞するオンライン試写会の数が増えてきました。

これまで六本木や渋谷の試写会場まで18時半の開始時間にほぼ間に合わないので大半は諦めていたのですが、オンラインとなると朝でも夜中でも24時間鑑賞可能になるというのはたいへんありがたいです。

確かに大きなスクリーンとどデカイ音響がないのは寂しいですが、公開が始まって見に行ってねという考えもあるのでしょうか。

映画館の営業再開を受けてジプリや仁義なき戦い等、何とか昔の番組でスクリーンを埋めていましたが、ここにきて座席数をフルハウスで営業する劇場も多くなってきたので公開を控えていた作品が順次公開されているようです。

今日見た作品『PLAY 25年分のラストシーン』も、そのうちの一作品で間もなく11月6日から公開ということです。

ストーリー
1993年、パリ。両親からビデオカメラを贈られた13歳のマックスは、温かな家族や幼なじみのエマ、マチアス、アルノーたちとの日々を撮り始める。いつしかそれは彼のライフワークになり、25年の歳月が大量のテープに保存されていった。

2018年.38歳になったマックスは、ある日、撮りためた25年を映像作品に仕上げようと思い立ち、テープの山を整理し始める。そこには、エマと初めて会った日のこと、背伸びした夜遊び、初めてのバルセロナ旅行や、フランスサッカーW杯でのお祭り騒ぎ、ミレニアムの興奮、手痛い失恋や友の成功――いつも一緒だった仲間たちとの日々とマックスのすべてが記録されていた。
素直になれず、大切なものを手放してしまったマックスは、新たに自分の「映画」のラストシーンを準備するー。
(出典:『PLAY 25年分のラストシーン』公式サイトより)

パリでも日本でもそんなに青春って変わらないのかな?
これが90年代のグローバル化の結果なのかなというのは冗談としても、人間の成長過程は万国共通だなと思いながら見ていました。

あー、よく聞いていたよジャミロクワイ!と自分が生きた記憶をなぞりながら、時にはいきいきと時には挫折を味わい、七転八倒する主人公たちに対して、ほぼこの世代にあたる僕は物凄く共感しました。

主人公が25年間に撮影をした映像を振り返っている構成自体が変わっているし、目は口ほどにものを言うではないですが、被写体と撮影する主人公とのカメラ越しの距離感で気持ちを表現するところが随所にありました。
そこが素晴らしく、ストーリーと相まって感動を呼び起こしていました。

ただ、プレイステーションや2000年のミレニアムカウントダウンといった僕らが通ってきた90年代や00年代のカルチャーやイベントを知らないと、前半部分はきついかもしれないというのはあるかも。

でも、あの前半部分も主人公以外にもストーリーというか人生があって、それがビデオに映り込んでいるというのが僕にはたまらなく良かったのです。

青春映画なのだけれど無軌道で身勝手な作りじゃなく、しっかり他の出演者の時間も気持ちも移ろいながら流れていくのが素晴らしいじゃないですか。(グッと手を握る)

音楽もストーリーもヨーロッパの街並みも、全体を通じて楽しむことができました。

『レディ・バード』や『エイス・グレード 世界でいちばんクールな私へ』が好きな人にはオススメの作品です。

今日も最後までお読みいただきありがとうございました。



つたない文章を最後まで読んでいただきありがとうございました。 もっと上手に書けるよう精進します。