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WFH、あるいは最適な自宅学習の環境について①総論編(前編)


このシリーズでは私自身が理想とするWFHの環境を挙げ、そこに近づけるための各種デバイスの活用法を書き連ねて行こうと思います。

本論は特定の業種業態に向けて書かれたものではなく、また同時にすべての働き方に当てはまるものでもありません。後に触れることになりますが、あくまで私自身の人生設計と、そこから導き出されるWFHの最適化についての私的な論考となります。

それでもなお、読んだいただいた方が自分自身にとって最適なワークスタイルを確立するための一助となれば幸いですし、忌憚ない意見をお待ちしております。

繰り返しになりますが、本論は私自身の人生設計に関する推敲が多くを占めているので、まず考察をはじめるにあたって、下記の事項を明らかにしようと思います。

なぜ本論考をはじめるにいたったか。 
私が理想とするWFHとはどのようなものを指すか。
それはどのような考えに基づくものであるか。

本稿および次稿では総論編と称して、これらの点について記述します。


1.本論考をはじめる理由

はじめに、渦中のパンデミックが本稿の執筆をmotivateしたことは言うまでもありません。

COVID-19の感染拡大に伴い、都市圏では緊急事態宣言が発令・延長され、外出自粛が余儀なくされてきました。当初予定されていた刻限を待つことなく宣言は解除されましたが、従前の甚大な影響および社会のシフト、第二波の到来の可能性も含め、before coronaの生活への回帰の道は閉ざされているといって差し支えないでしょう。

では今後の生活はどのように変化していくのでしょうか。すでに数多くの報告が指摘している通り、状況はagainst coronaからwith coronaへと見方を変えなければならないフェーズにあります。換言すれば、COVID-19の影響が長期化する中で、対症療法的な対応策は意味をなさず、故にどのようにしてその状況と併存していくかがテーマになりつつあります。

従来の生活の手段や労働環境に対しても、とりわけその非効率に対して多くの問いが投げかけられ続けています。その問いの是非はさておき、上の通り不可逆的に開かれた新たな環境への適応は避けられない事態となりました。そのため、旧来の業務や生活態度を見直しリソースを再配分することは、組織・個人のいずれにとっても多かれ少なかれ必要なことではあると言えます。もっと言えば、リソースがbefore coronaに比べて増えるということは考えにくいため、いずれにしても生活や労働の質を改善していく方向に舵を切ることが必要となるでしょう。

世間一般においては、その各論の1つとしてWFHがあるのだと思います。WFHという就業スタイルの是非はともかくとしても、到来し始めているwith coronaの状況を推定すると、在宅勤務が1つのスタンダードとなるのは不可避であると私は思っています。

故に、いつまで続くかわからない、あるいは今後の社会のあり方と同義となるかもしれないwith coronaに対応すべく、理想的なWFHスタイルを追求するというのは、たしかに今すべきことであると言えるでしょう。


しかしながら、本論考の企図するところはこうした状況ありきで自らのスタンスを変えるというものではありません。むしろ順序は逆で、「人生における労働の位置づけ」という大きなテーマにとって、パンデミックはあくまで一契機に過ぎないと考えております。それはどういうことでしょうか。

そもそも私達が実存的に生を営むためには、常に自らの業務や生活態度を絶えず改善し、自身が目指す幸福に近づいていく必要があります。そして、その試みが私達が根ざす社会的基盤の構造や、それを生み出す神話的思考によって阻まれているものであるなら、それがパンデミックという大きな衝撃によって瓦解し解体し始めている今こそ、それを積極的に脱構築し、自分にとって最良の一手を指すために組み直すことを目指すべきだと私は思います(このポリシーについて詳細は次節に譲ります)。

幸い、昨今の働き方改革や、各種ハラスメントに対する問いかけは、個人にとって幸福を追求する状況を構築することを着実に後押ししていると思います。非効率的、あるいは非論理的な、部族の慣習ともいうべきカルチャーに対する批判の声は年々強まるばかりです。

WFHについても事態は同様で、過密的な空間で共同体を営むという、公教育・企業組織をはじめ日本社会に連綿と続いてきた神話的な(≒根拠も意味もない)価値観の解体が、COVID-19のパンデミックによってドライブされたと捉えることもできるでしょう。

よって、数年間のwith coronaは見込まなければならないシチュエーションにあるとしても、それとは別問題として、我々は新たなステージにおける働き方(生き方)を追求しなければならなかったですし、今なおそうであるのです。

残念ながら、強固な権力装置に下支えされた虚像というものは、いくら大衆が声をあげたとしても、それがその権力にとってクリティカルな要因にならない限り、容易に解体できない代物ではあります。緊急事態宣言が発令され、テレワークがにわかに広がりを見せた時、SNS上では「遅々として進まない働き方改革を一番推し進めたのはCOVID-19じゃないか」と皮肉られていましたが、まさにそのとおりです。

しかしながら、それはまさに虚像であるがゆえに、「疾風に勁草を知る」のごとく、外部からの強大な圧力によってその虚ろな本質をあらわにし、倒壊し得るのです(偶像は大きければ大きいほど、倒れたときに実像のごとく周囲を大きく巻き込むので、それはそれとして身を守るべく構えなければならないのですが)。

今回はCOVID-19という強大な外的要因が契機となりそうですが、それが大衆の声が積み重なるか、はたまた別の(経済危機のような)クライシスによるものとなったかは順序の問題であって、いずれにせよ旧時代的な価値観は漸進的にその無意味さをあらわにしつつありました。

私自身は新卒で社会人生活をはじめて以来、COVID-19がなかったとしてもいずれ来るであろう新たな社会的環境の到来に向けて、自らの人生観を数年単位で労働環境に対応させるべく緩やかに準備を進めてきたつもりでした。故に、想定したタイミングとは異なりますが、COVID-19によって推し進められた状況の変化に関しては歓迎すべきものとして捉えております。

そのため、本稿で目指すWFHスタイルの確立とは、外出自粛などの外的要因によって在宅勤務をメインストリームとして強いられたがために、それに沿った働き方を検討し始めるというものではなく、逆にこの機に乗じて、在宅勤務を含めた[人生と労働の関係]を再度明確化し、今後の働き方にアプライすることを軸に据えたものです。

つまり、自らの人生観・労働観を再確認した上で、来たるべき状況においてそれをどのように最適化できるかを検討することが、今、本稿を執筆する理由です。


2.個人的な労働観について

では、そのような考えにいたる私自身の労働観、ひいてはそれを下支えする人生観というのはどのようなものであるかについて、遠回りになりますが触れたいと思います。

あくまで概略を書くにとどめますが、私自身の人生におけるイシューを一言で表すなら、[幸福の戦略的追求]であると言えます。

すなわち、幸福とは何かを考え続けること、そして持てるリソースを駆使して自分の幸福を最大化させるための最善の策を打ち続けることが、自分の人生のテーマであると言えます。もっと言えば、これを追求し続けることがそのまま、私にとっての生存戦略であるといって差し支えないかと思います。

これはあくまで極私的な価値観ではありますが、多くの人にも共有していただけるテーマではないかと思っています。というのも、幸福の定義は人の数だけ存在しますが、幸福追求のモデルケース自体は共通のものを策定することが可能であるからです。それはどのようなものかは下図のとおりです。

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外的環境と自らの能力を所与のものとして方法論を編み出し、自らの性格・性質に応じて最適化すること。幸福を能動的に追求するための所作はこれに尽きると思います。

よって、自らにとっての幸福を問い、定義し続け、他方でそれがどのような形で実現できるかを追求することは、人生設計の主軸を構成するフレームワークとしてそれほど筋の悪い見立てではないと思っております(ちなみに私自身の幸福には実存の探求などが含まれるのですが、抽象度が上がる話題なのでここで踏み込みはしません)。


上述のパースペクティブが多くの人にとって有効であるというスタンスを取った上で、なぜこうした議論が汎くなされて来なかったのか、少し私見を述べさせていただければと思います。

その理由は、こうした生存戦略は近代日本社会における神話によって常に覆い隠されてきたものであったからです。

例えば平成の時代においては「自分らしさ」という観念が圧倒的なプレゼンスを獲得しましたが、それによって同時に「自分にとっての幸福」という視点から大衆は疎外され続けてきました。また、学歴や終身雇用という制度は資本主義とコラボレートし、大衆を物質的に満足させましたが、必ずしも彼らの幸福に寄与するものではありませんでした。

なぜならそれらは他者が生み出した価値観の上に生じた、いわば幸福という皮を被った虚像であるからです。他者と〈私〉が決して一致しないのと同様に、他者によって作り出された幸福の像が、自分自身の幸福と一致することは構造的にありえません。いかに「自分」という単語で取り繕ったものだとしても、です。

しかるに、近代社会および資本主義は幸福と似て非なる概念を生み出し、人々を他者の幸福という決して手に入らないものへのあくなき渇望へと駆り立て、同時に自分自身の幸福と対峙することから疎外することに成功しました。例えば「幸福度」という言葉は世間に汎く膾炙しておりますが、これはいわば資本主義による「幸福」の定量化であり、やはり外部にある幸福ではない何物かに人を依存させる施策であると言えます。

故に各人にとってこの施策に乗ることは「自分自身にとっての幸福」を思考することを放棄し、それを外部に委ねるものであると言えます。それはいうなれば、持続可能な生存戦略における最重要イシューを外注することです。これがどれほど生命体にとって危険な態度であるかは、経営理念を外注する企業を想像すれば簡単に認識できるかと思います。

そのため、既成の価値観から脱却し、自分自身の幸福と向き合った上で人生を設計することは常に必要なことであると私は考えています。令和の時世、いい加減その生き方は汎く採用されて然るべきだと私自身は思っているのですが、今日に至るまでの社会システムは、実存的に幸福を追求する人々をよしとせず、ムラ社会への参画を精神的・物理的に強制してきました。未だ前時代的な価値観が蔓延する日本社会の上に立ってそれを実現するというのはかなりタフな課題です。

しかしながら、状況は変わりつつあります。前述の通り、時代の流れにつれて、ようやく神話的な価値観はその効力を減じ始めてきました。その上で、COVID-19の到来はこの流れに強固な一撃を加えました。繰り返しになりますが、厳しい環境において、虚像は虚像であるがゆえに、その脆弱さから倒壊します。


2−2.付言

私自身の状況を述べます。私は文系の大学院を修了して以来数年、日系の大企業に勤めていましたが、今春にその会社を辞め転職をしました。

大学院を修了した当時、私は音楽と哲学を実存的なライフワークとして、社会的生存(会社づとめや社会生活)の余暇にそれらを細く長く続けていくつもりでした。そのため、忙殺されない程度の仕事を甘んじて受け入れ、その代わり余暇を自分自身のため最大限にストレッチさせるという戦略をとることを考えていました。

プレゼンテーション1

しかしながら、その見通しは甘く、少なくとも前職においては全く実現できそうにないことが次第にわかってきました。理由は大きく2つあります。

1つは旧世代的な価値観と思考が前職のカルチャーには根強く残っており、仕事をしているうちはそこから不可避的に影響を受け続けてしまうことです。2つ目は、ノルマ・残業・転勤など様々なイベントはありますが、一言で換言すればそれは会社に自分の人生のクリティカルな部分をあまりに握られすぎているという実感に基づくものでした。

つまり、運が良ければ自分の望む人生設計が首尾よく実現するかもしれない、しかしそれは多分に偶発による産物でしかないと感じたのです。これは本人が承知しているうえで激務が確定しているよりもある意味危険な状況だと思いました。

故に、おそらくこの会社で生存し続けることはそれなりの確率で可能かもしれない、しかしそれは社会に出るまでに築いてきた私自身の価値観とトレードオフにはじめて実現する、という状況に自分はあると思ったのです。加えて、今後の人生において、例えばもしかしたら所帯を持つかもしれない、親の介護が必要になるかもしれないなどと見通しを立てた時、自分自身に費やせるリソースという基準を立て続けていても、それは確実に目減りする一方であることは明白でした。

それ故に、この状況を打破するために転職をしました。

まず必要であったのは、幸福の追求を余暇のみで成し遂げようとする戦略を捨て去ることでした。いくら余暇が多分にあったとしても、それは睡眠と仕事を差っ引いた上で残るわずかな時間であることに変わりはありません。そのため、先に挙げた要素をあくまで同列のものとして、それらを相互に連関させ、それぞれが補完・増強しあう関係にもっていく必要があると考えました。そして、私にとってそれを成しうるキーファクターは勉強や自己研鑽でした。

プレゼンテーション2

故に、職場に求めるのは、それが可能となる環境でした。

つまり大前提として、人生にとってクリティカルの要因を自分以外になるべく握られない環境と、非合理的な価値観を極力排除し自己研鑽に努めることが奨励されるカルチャーを提供する組織に属すること(そして万が一、数年を経て現職で立ち行かなくなったとしても、転職などの手段をとることが可能であるように自らをスキルアップできる状態にあること)を目標に据え、転職を行いました。

幸いなことに現職はそれに適っていると現時点では感じております。


後編.WFHの定義と方法論

(次稿に続く)

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