固定観念にとらわれることは別に悪くないんじゃないかって気がしてきたっていう短め備忘録

今風呂に入ってたらふと思うことがあったので備忘録的に書きます。

「〜べき」っていう考え方とか固定観念を持つことは、信仰の一つのあり方で、人間はそれらに依ることで、迷わずに決断しやすかったり、ある程度精神を安定させることができるんだなって思った。

時には、「〜べき」とか固定観念ってのは我々の行動を縛ったり、我々がそれを人に求めた時に齟齬を生みうるものだから、そういう時はその考えから外れることが自身を楽にするとは思うんだけど。でも必ずしも固定観念から外れて解放されることが自身を楽にするとは限らないような気もしてきたって感じ。

「信仰」という言葉を使ったのは、その人が信ずる対象(固定観念とか「〜べき」っていう考え方とか)が真に正しいのかどうかはどうでもよくて(そもそも真に正しいという判定を下せる可能性を持つのは神だけだと思うけど)、その対象を意識的にせよ無意識的にせよ正しいと信じることで、楽に生きていけるのかなって思ったから。

去年古武術の先生にやばいやばい技を見せてもらおうとそれとなくお願いしたら、「受け入れる準備ができている人には見せられるよ」って言われて、結局見せてもらえずに帰ることになっちゃったんだけど、あれはきっと、先生の技が俺の固定観念を外れたものであって、その時の俺にはまだ自分の固定観念を壊される準備ができていなかったから、先生は俺の精神を不安定にさせないようにしてくれてたんだなあと。

短いけど終わりばいばいー

追記:このことにお風呂で気付いた時、もしかしたら俺は「固定観念は持たないほうがいい」という固定観念から解放されたのかもしれない。

次なんか面白いことやるように使おうと思います。 もらえたらめちゃくちゃ喜びます。 サポートの際、これやってほしい!みたいなのがあれば反映されるかもです。