【俺の家の話03 郊外に建てられた家】

俺の家は、JR中央線の国立駅北口から歩いて20分くらいの郊外住宅地にある。
住所は、国分寺市なのに、「国立団地」という名前の東京都住宅普及協会による宅地分譲だった。1961年に、68の宅地が売りにだされ、俺のオヤジたちは、そのうちの北のはずれの土地が抽選であたり、家を建てた。

占有面積は、68,29坪+共有地持分15,82坪、分譲価格は、1,202,480円だった。住所は、北多摩郡国分寺町中藤新田はけ南23番地外。

オヤジは、築地市場に勤め、勝鬨橋近くの団地に住みながらその管理人もして、オフクロは、1人目の長女を授かる。たぶん、子育てのことを考えて、引っ越すことを決断したんだろう。

仕事場まで、歩いて通えたのを、通勤時間1時間以上かかることになる。そこまでして、どうして、郊外の一戸建ての家にこだわったのだろうか。それしか、選択肢はなかったのか。

借家暮らしから持ち家へ。どんなに職場から離れていても、一戸建ての家を持ち、サラリーマンの旦那と専業主婦の核家族で暮らすことが、この時代のみんなの目標になっていたのだろうか。

いまや、時代が変わり、共働きが増え、郊外の一戸建てがゴールという住宅双六は、成り立たなくなっている。一生賃貸ぐらしもありだし、都心のマンションで職住接近を選ぶ人も多い。

それでも、一度、日本人にマインドセットされた郊外住宅地の持ち家で、子育てしながら核家族で暮らし、都心の職場に通うという呪いは、あいかわらず続いている。恐ろしい。

俺は、1994年から2004年の10年間、新宿の住まいづくりの情報センターで、住まいに関連するデザインの展覧会を企画していたせいで、戦後の日本の異常な共同幻想とも言えるこの持ち家政策に気がついてしまった。

そして、俺と俺の家族も、まさに、そうした時代の流れによってできた歪な東京の郊外住宅地に家を建て、そこで育ったのだと言う事実を知って、愕然とした。

こどもにとって、自分が育つ環境は、親によって決まり、自分では、どうすることもできない。日本の高度成長が生み出した持ち家政策というサラリーマンの暮らしを犠牲にした定年まで強制的に働かされるための郊外住宅地という呪いの中で、育ったんだとわかった。

地方から東京にでてきた多くの人が、都心に家を持てずに、郊外に家を求めた。東京の郊外の人口は、どんどん膨れあがった。農地がどんどん宅地化され、巨大なニュータウン開発も生まれた。

仕事を求めて都市に集まる移民。その劣悪な環境は、小さな庭付き戸建を目標として、通勤地獄に目をつぶることで実現していった。寝に帰るだけのまちは、ベットタウンと呼ばれた。海外からは、うさぎ小屋なんて、揶揄されたこともあったな。

仕事で、暮らしのデザインとか言ってるのに、自分たちの暮らしは、どうなのか。郊外の住宅に住み、都心に通うことが、果たして良い暮らし方と言えるのか、俺の答えは、ノーだった。

こうして、自分たち家族の暮らしを見直して、郊外住宅地から都心に通うサラリーマンを辞めざるおえなかったのだ。もちろん、住まいを都心に移すという選択肢もあったはずだが、都心に住みたいとは、まったく思わなかった。

自分が育った郊外住宅地。それは、都心に通勤する親には、地獄だったかもしれねえけど、こどもにとっては、パラダイスだった。まだ、開発されきってない農地や雑木林、そして、空き地が残る環境は、うってつけの遊び場だった。天然のプレイパーク状態だ。

そうした環境で育ったので、どうせ住むのなら空の広い、自然がたくさんあるまちに住みたい。でも、車の免許をもっていないから、地方には、住めそうにない。そもそも、車のがないと生活できない地方にしたのは、どこのどいつだ。

田舎だけど、都会にも近い郊外住宅地。通勤地獄さえ、なんとか我慢すれば、こどもたちにとっては、快適な環境だったのかもしれねえ。

そうして、国分寺崖線の自然をつぶして切り開いた、坂にある戸建ての国立団地には、同じ世代の都心に通うサラリーマン家族、つまり地方から集まってきた移民であふれた。

家の裏にあった原っぱは、同世代のこどもたちが集まる場所だった。オフクロがやっていた文具店には、近所のコドモもオトナも集まる井戸端みたいな場所だった。

俺の記憶の中にある原風景は、原っぱに秘密基地をつくって、そこに泊まったことと、店の前に、たくさんのコドモが溢れていたこと。昭和の時代ならではの郊外住宅地のひとつのかたちだったのかもしれねえ。

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