【俺の家の話05 高度成長期の家】

俺の家は、60年前に郊外住宅地に建てられた木造二階建ての家で、増減改築を繰り返した。

特に、変化したのは、北側にある水回りと設備だった。今ではにわかに信じられねえだろうけど、最初は、薪をくべてお風呂を沸かしてた。台所の片隅の勝手口の横の小さな土間から風呂釜に薪をくべた。俺も手伝った記憶がある。

東京ガス関連の会社で働いていたことがあるせいか、お風呂の歴史は、なんとなく知ってる。今のように、ほとんどの家にお風呂のある暮らしは、戦後になって実現した。日本人のお風呂文化は独特で、なぜ、家の湯船でもお湯に浸かりたいと思ったのか。それは、銭湯や温泉がたくさんあることと、関係している。たぶん。

1961年の国立団地には、都市ガスがなくて、薪。銭湯もあったから、家にお風呂のないアパートもそれなりにあったのだろう。家のお風呂の改修の時は、近所の銭湯に行った記憶がある。

数年後には、都市ガスになって、ガス湯沸器が導入されて、タイル貼りだったお風呂が、近代的な綺麗なステンレスのお風呂になった。プラスティクじゃなかった。

そういえば、オフクロの実家は、五右衛門風呂で、木の樽に、木のフタを鎮めて入る形式で、ちょっと怖かったのを覚えてる。怖かったと言えば、トイレだ。板の間に陶器の便器がはめ込まれている和式で、穴が開いてるだけのいわゆるぽっとんトイレ。これは、本当に俺の家の話だよ。

小学生の頃、吉祥寺の親戚の家の社宅に泊まりに行った時、洋式のトイレで、どうやって使うのかわからなかった。国分寺の西のハズレにある俺の家は、下水道が整備されたのが遅くて、しばらくは、汲み取りのバキュームカーが、汚物を回収しに来ていた。

68戸の住宅地には、水源地と呼ばれる謎の空き地が今もあって、一番最初は、そこにタンクが設置され、水を供給していたらしい。どういう仕組みだったんだろう。

郊外住宅地の開発と、電気、ガス、上下水道などの、インフラの整備は、並行して進んでいた。電柱に張り巡らされる電線と、道路を掘り返して埋められガス管、水道管。

ガス炊飯釜が電気炊飯器となり、炭の掘りコタツが電気コタツに代わり、灯油のストーブと扇風機の暮らしが、いつのまにかエアコンが導入されていった。

1964年の東京オリンピックの頃には、居間に白黒テレビが導入され、テレビ中心の暮らしがはじまる。玄関にあった黒いダイヤル式の電話は、いつの頃からか居間に置かれるようになる。

1970年の大阪万博の頃には、科学技術による素晴らしい未来と、資本主義の反動と、公害問題から環境意識の高まりがあり、国分寺は、ヒッピーやコミューンの聖地になった。

冷蔵庫が大型化され、台所からキッチンとなり、洗濯機が二層式から一層になり、マイカーがあたりまえとなり、どんどん、暮らしが更新されていった時代。

近代化、合理化、便利の名のもとに、すべてが産業化され、商業化され、都市化され、内需が拡大し、輸出が増えて、高度成長と呼ばれ、成金の国になっていく。

1961年から1990年。バブルがはじける30年間の時代の変化は、俺の家にも、大きな影響を与えた。きっと。

俺がこの家で育ち、28歳で結婚して、この家を出て行くまでの時代。社会がどう変わって、俺の家がどう変わったのか。

いまさら振り返ってもしかたないけど、60歳になった今だから、その前半30年間の昭和の時代の郊外住宅地がどんなに変遷をたどったのか。個人的な記憶を記録しておきたい。

オフクロが文具店をやめたのがちょうど1990年頃。バブルの崩壊に象徴される時代の亀裂がここにある。はずだ。

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