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麻布競馬場を読んだことがない

人と話していて、朝、テレビのニュースを観るという文化が知らない間に絶滅していそうなことに驚いた。

世の中の若い人(自分もその一部ではあるが)がテレビを観なくなってきていることは知っている。観たいものがあればTVerで後追いするし、話題のシーンはSNS切り抜かれて、無法者の私腹を肥やす糧になっている。

ただ朝のニュースだけは何となくどんな人でも観ていると思っていた。

ニュース番組は本来、情報源としての側面が重宝されるものだが、どうもその様子ではない。
例えば日本テレビでは、リプレイ検証を要求するようなポーズをとるニュース番組が放送されているが、そのニュース成分は桃の天然水の果汁ほどもない。
他の民放はもう少し詳細にヘッドラインは取り扱っているものの、硬派なニュース番組とはいえない。

それでも朝のニュースをつける意味は、時計としての側面にあると思う。毎日同じ流れでコーナーを放送してくれるので、時計を見なくても時間がわかる。

そんな中、NHKのニュース番組をつけていたら、麻布競馬場という作家の特集が放送されていた。

会社員としての傍ら執筆に取り組み、連載した小説が直木賞候補に挙がったとのことだ。
密着の中で彼は、ほぼ毎日のように一般人として飲み歩き、人と交流していて、その経験を小説に生かしていると語っていた。
(意訳です。多少表現が正確でない可能性あり)

小説、特に生活に根ざした作品を描く作家は、年々高齢化しているのではないかと思っている。作家という職業が食えなくなってきており、大御所と呼ばれる数パーセントの作家のみがドカンと売り上げを立てている構図であるという話を聞いたこともある。

そんな中、32歳の会社員が自分の足で市井を巡り、それを小説に取り込んでいるのだから、それはそれは面白いのだろうと思った。

一方で、私は怖くなり、その小説を読みたくはならなかった。

作者に近い年齢のいち社会人として、世代間格差の皺寄せや、上の世代との明らかな価値観・志向の違いを感じ「させられて」いる身としては、その答え合わせを小説にされたくなかった。

そして、東京新聞に掲載された上野千鶴子のコラム「平等に貧しくなろう」を読んだときのあまりの衝撃、そして怒りを思い出した。

あの記事を読んで以降、「上の世代」は「こちらの世代」とは違う日本人なのではないかという疑念が晴らせない。純粋な気持ちで年長者のアドバイスを聞くことができないでいる自分がいる。
心のどこかに、楽観や、正常性バイアスを持ったままでいるのではないかと思う。

とはいえ自分も、自分が生きている内くらいは日本という大きな船は沈むことはないと思ってはいるし、下の世代からは「逃げ切ることができる世代」だと後指を指されるまでそう遠くないと考えている。

実は世代の話も、朝のニュースを見る/見ないくらいの違いでしかないのかもしれない。

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