話がそれる。

 毎日のようにエッセイを書き続けてほどなく1週間が経とうとしている。途中小説を一つ投稿したが、今後もエッセイをメインとしていく所存ではある。
 さて、私のエッセイは普段過ごしている何気ない日常の中で思った事、感じたことを書いている。そこには人生のタメになるような要素は無いし、人を笑わせるようなユーモアも含んではいない。ただ、一日の終わりに、今日考えたことをビール片手にまとめたような、そんな文章達である。
 そのようなエッセイを読み、スキを押して頂ける事は大変うれしく思いながらも、なんというかこんな感じでいいのだろうか、という事も思わなくはない。尤も、そのような思いは浮かんでくるだけで、今後、「人生に役立つ100の思考法」とか「これで貴方もダイエットマスター!」とか、そのような記事を書くつもりは毛頭無い。スマートフォンに書きなぐったエッセイ用のネタを見返しても、「死語」とか「机の上の水滴」とか、正直どうでもいいようなキーワードを、これまたどうでもよさげに書き連ねる事になるだろう。おそらく、私の性格的にそれが似合っているのだ。

 今回のエッセイのテーマは「話がそれる」である。今日まで私の記事をいくつかチェックして頂いた読者諸君は、私のエッセイがところどころで脇道へと入っていき、慌てて「話を戻そう」などと言う戯言と共に本筋にしれっと戻ろうとするシーンをいくつか見かけただろう。
 そう、私は話がそれやすいのだ。
 というのも、このエッセイのみならず、過去に書いた幾つかの記事は、寝る前の深夜、ビールを片手に煙草をふかしながら、タイトルに書かれた事柄に対して思っていることを無計画に書きなぐっているだけなので、本来あるべき筋道という物を脳内に持っていないのである。
 つまるところ、その場で思いついた話を書き、なんとなく満足したところで、よし元の道に戻るかな、と満足げな表情をして何事も無かったかのように話を進めるのだ。
 これはもちろんエッセイに限った事ではなく、日常生活の何気ない会話の中でも、高確率で起こりうる現象であり、それを自覚しながらも治そうとは思っていない。

 話がそれるとどのような不具合が生じるか、まず一つに話が長くなる。本来ならば最初と最後の一行で済むような話でも、無駄に長い文章や言葉を使う事になり、その情報が必要か必要でないかわからないまま、話し手も聞き手も無為な時間を過ごし結論へと至る。私もたまに人と話していると、その件って必要ですか? と思う事が多々あるが、この感情はコミュニケーションの場において非常にマイナスであり、人の話をつまらないと感じてしまう要素である。
 また、話がそれると着地点を見失う可能性がある。例えば、恋愛相談をしていたはずが、途中で好きな女性が猫に似ているという話題になり、猫の肉球の柔らかさを語り始め、動物のありとあらゆる部位の柔らかさについて語りつくし、じゃあカモノハシのくちばしはどんな感触なのだろう? と、疑問を持ち始めたが最後、私たちはインターネットを駆使してカモノハシのくちばしについてとことん調べる羽目になる。そうなると、2時間前に話していた好きな人の事など頭からすっぽりと抜け落ち、今度動物園に行ってカモノハシを見ようぜ、等という約束を取り付け、居酒屋の会計を済ませることになるのだ。
 余談ではあるが、日本の動物園でカモノハシを飼育している場所は無いため、恋愛話から話がそれていったこの2人は、約束を果たすためにオーストラリアへと行かなければならない。日本に置いて行かれた猫に似ている女性は、カモノハシに負け何を思うのであろうか。

 この時点で私は一度このエッセイを一から読み直した。無論、自分が何を書いているのか分からなくなったからだ。
 このように、話がそれると聞き手はもちろん、話し手も何を言っているのか分からなくなる。話が長くなり、着地点を見失うどころか、会話の道中ですら自分の手のひらからするりと消えてしまうのだ。本来ならば、自分の話がそれやすい事に対して反省と改善点を見つけるはずのこのエッセイが、気づけば国内でカモノハシを見れる動物園を探している。

 「毎日のようにエッセイを書き続けてほどなく1週間が経とうとしている。」この一文から始まったエッセイの着地点は、「カモノハシを見るためにはオーストラリアへ行かねばならない」である。読者諸君はこうならないよう、是非自分の文章や日頃の会話を、見つめ返してはどうだろうか。
 上手くまとめられたという事で、今日はこの辺りでエッセイを終わりにしようと思う。お付き合い頂きありがとう。

 

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