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大門はどこ?塩尻鉄道不思議物語/信州史跡探訪File008

(旧中山道クロスバイク行)ここまでのあらすじ
朝、みどり湖駅にクロスバイクを置く。洗馬駅に車を停め、JR中央線を使ってみどり湖駅に戻り、クロスバイクに乗って旧中山道をたどる旅は塩尻宿を後にした。
その1/みどり湖駅事件はこちら

旧中山道が斜めに国道153号線を横切る。

左の細道が中山道だが、おそらく住人でも知らない人が多いのではないだろうか。

100mほどで田川にぶつかり、まさかに橋は残っていないのでここでまた153号に合流する。

田川にかかる塩尻橋が5月からずっと工事片側通行になっていて出勤するドレミを困らせている。JR中央本線の高架下の道まで迂回せざるを得ない。中央本線が「高架」だというところが今回のミソでもある。

橋の工事に合わせて、たもとにあるバス停がぐっとスペースを広げ、小さな公園を兼用するようになっている。そこに何やら案内板も設置されているので自転車を停めて見に行った。

まさかのまだ白紙案内板であった。気を取り直しておやつタイムとする。

リュックから「どらやき大納言」を取り出した。今日のサイクリング行を聞いたドレミが、ゆうべの帰り道にお菓子屋さんまで遠回りして買ってきてくれた。甘い大納言をむしゃむしゃと噛んでいると、じんわりぼっち旅が実感されて来る。

大門はどこにあるか

塩尻橋から間なしの交差点で153号は右折して北に向かい直進方向は中心街を通って塩尻駅に向かう。この一帯を大門(ダイモン)という。大きな神社の参道でもなし、従って大きな門もその跡もなし。なぜに大門なのか、この機会にずいぶんと検索してみたが分からない。近いうちに図書館を訪ねてみようと思うが、付近には小さな門すらもない。そもそもに大門は塩尻宿から3kmも西にある。もう少しで1里塚が建ってしまうほどの田舎であった。そんな場所になぜ駅ができたのか。

1902(明治35)年の夏に国鉄篠ノ井線は長野~松本間が開業、そのわずか半年後には松本~塩尻間が開通した。

この急ピッチの鉄道事業には軍事的な理由がある。ロシア、中国など想定される敵国によるもしもの上陸に備え、東京と近畿、中京を結ぶ重要鉄道は陸…と言うより山の中を進む旧中山道に沿って作ることが「国策」であった。それゆえ地理的にもまた重要性からも「中央」線である。そしてもう1本、碓氷峠を越え、塩田平から長野に入る信越線から南に篠ノ井線を通した。名古屋から北に向かってくる路線と接続するためである。問題は松本、名古屋、そして甲府から延伸してくる鉄道が交わる要衝となるはずの塩尻駅がなぜ「塩尻」に作られなかったのかという問題である。

塩尻ではなく大門に駅ができた理由は塩嶺である。

塩嶺を越えられなかった中央本線は大きく南に迂回し、横川川の作る谷を利用してかつて中山道の宿場として栄えた小野宿経由で北上した。サンドイッチマンのコントに「村上村村」という村が登場するが、こちらはコントなしに横川川(よこかわかわ)である。さて桔梗ヶ原に抜ける最後の関門はこちらも「善知鳥」と書いてうとう峠である。この峠が塩尻宿に近過ぎた

塩尻宿の標高が743m、善知鳥峠が885mで標高差が232mのところに距離が3.89kmしかない。(232/3890)x1000≒59.64、実に60‰(パーミル)の勾配がある。鉄道の勾配の上限は35‰とされている。50‰を超えても機関車連装すれば登れないことはないそうだが下ることはできない…すなわち止まれないのである。

善知鳥から尾根づたいに緩やかに迂回し、下りきることができるのがぎりぎり塩尻宿から3km西の田んぼの真ん中、すなわち大門だったというわけである。岡谷から塩嶺を打ち貫く全長5,994mの塩嶺トンネルが開通したのは1982年、その80年の間に塩尻の中心街は塩尻宿から大門にすっかり移動してしまったわけである。トンネルが開通してももう塩尻宿に駅が作られることはなかった(幻の東塩尻駅)。

中央本線はみどり湖駅から、なお高架を使って塩尻駅まで緩やかに下って大門に至る。また、岡谷と塩尻が直線で結ばれることになったとて、80年間も幹線だった辰野回りの路線も廃線にすることができず残った。

これが他の地域の人々…いや、もはや地元の多くの人たちにとっても謎多き、塩尻の複雑な鉄道路線の全いきさつである。
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