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髪結いの亭主/山に暮らして

江戸時代の道楽者が料理屋や髪結いなどの経営を女房に任せて生活していたことから,女房を働かせて暮らす男を総じて髪結いの亭主と呼ぶようになった。

長年経営した教室を畳み山に引っ越して半年余り,ボクたちは古くなった家の修繕や庭の手入れをしながらのお気楽な暮らしを満喫してきたが,ドレミは来春からの就職が決まっている。いよいよボクも髪結いの亭主と言うわけだ。

公立の小中学校では産休や病気の療養などで生じた欠員を臨時採用の教員が埋めている。長野県と山梨県の教育委員会に登録をしていたドレミにも,夏になって塩尻の中学校からオファーがあり,来春からは車で峠を越えて通勤することになった。音楽の専科は楽ちんかと言うとさにあらず,自動的に吹奏楽部や合唱部の顧問となって学校からも保護者からもコンクールでの成績を期待される。そのため運動部に勝るとも劣らないハードな部活動を余儀なくされるからだ。いい音楽の先生の需要はとても高いようだ。

塩尻は遠いがドレミは最初,仕事に慣れるためにと短期の代用に応募したものだった。その仕事は翌週から中3の子たちの成績をつける必要があるという緊急性の高いものだったために未経験のドレミは不採用となったが,面接した校長先生がいたくドレミの人柄を気に入って,長期代用を探していた別の中学の校長先生に紹介してくださった。よほどプッシュしてくれたのか面接を受ける前に採用となった。片道1時間15分ほどの峠越えの通勤を決意したのはそんないきさつからである。

さて,ボクたちがこの円安の時期にしかも物価の異常に高いニューヨークへ旅したのは他でもない,マンハッタンに暮らす伯母が病床に臥していたからである。その滞在中にiPhoneや登録のメールアドレス,そして連絡先の義母を通して三つの小中学校からドレミに連絡が入った。塩尻の正式採用通知から旅行まであまり間がなかったため,登録解除を帰国後にしようと思っていたのがいけなかった。どれも熱烈なオファーで,その中には条件や通勤距離が申し分のない話もあったが丁重にお断りせざるを得ない。唯一,韮崎市の補助教員の募集はよほど窮しているらしく、国際電話が来て春まででいいからと食い下がられた。結局ニューヨークで仮の履歴書を作成して送信し,帰国した翌日に面接に行くと、もうドレミのデスクが用意されていた。

ボクはあえなく繰り上げ髪結の亭主とあいなった。当の本人は至ってルンルンである。彼女の大学卒業を待って起業して以来,ドレミはずっと会計担当の重責を担ってきた。決められたことを几帳面にキチンとこなすことに高いスキルを見せる彼女にとって,新しい世界のすべてが新鮮で楽しいのだろう。

初出勤の前日,ボクはドレミの通勤用の車を整備して磨いた。春までは半日の勤務でしかも指導の補助である。公立での勤務はもちろん初めてだし,最近の現場にはAIが導入されているので,フルタイム勤務の前のウォーミングアップとしても役立ちそうだ。そして何よりドレミのいない時間に慣れなければいけないボクにとってもちょうどよい準備期間となる。

ところで江戸時代の髪結いの亭主たちは道楽者ばかりではない。岡っ引きや火消しなど重要な公的任務に就いていた男たちもまたそうであった。あるやなしやのお上からの俸給だけでは暮らしていけないので,妻たちが家業で彼らの社会貢献活動を支えていた。剣客商売の小兵衛を助ける御用聞き弥七の女房おみねは武蔵屋という料理屋を経営していた。御宿かわせみで活躍するお手先長助は深川佐賀町のそば屋長寿庵の主人だが,店は専ら妻が切り盛りしていたのはご存知の通りである。

もっとも目下ボクには十手や纏を持っての社会貢献の予定はないので本日よりはただのだらしのない道楽者である。

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