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ボクたちの冒険3/カナダ旅/前編

ボクと妻のドレミが外国でレンタカーを借り,ノープランの旅をしてそれを冒険と呼ぶのは…そう,メンタル的には登山やサバイバルキャンプに少し似ているように思う。社会や組織,地域や友人たちという言わば自分たちが「認知」されているコミュニティを離れ,ただの異邦人として行き当たりばったりに外国を旅する。そこで思いもかけなかった出来事(それはトラブルであったり楽しみの発見だったりする)に遭遇し,持っている能力とチームワークだけでそれらに全力対応していく。日常の中でともすれば錆びつきがちな自分たちの判断力や創造性,そしてコミュニケーション能力などが研ぎ澄まされていくのを実感できる。旅慣れてくる頃には刺激もまた失われていく。10日前後が冒険にはちょうどよいと思う。

車を使うのは持病の脊柱管狭窄症に依るところも大きいが,そもそもボクたちは日本のモータリゼーション絶頂期に青春時代を過ごしたために旅と言ったら車だったのである。乗り鉄のような旅にあこがれないでもないが,修学旅行で0系のひかり号に乗って以来,半世紀あまり新幹線に乗ったことがない。長距離の切符をどうやって買うのかもよく知らない。


1.お弁当作り

通常は空港の到着ロビーに出た瞬間から始まるボクらの冒険が今回はいささか勝手が違う。メグミ伯母はボクたちのためにハムやチーズをどっさり準備してくれていて「お弁当を作って行きなさい」と言う。

「トンコーツのラーメンもあるわよ。持って行く?」
「あははは,それは帰ってから頂くことにします。」

気持ちはタイヘンありがたいのだが,ガソリンスタンドで謎のファーストフードにチャレンジしたり,安ホテルの近隣スーパーのデリに行って食べ物を物色するのもまたドライブの醍醐味である。豪華なサンドイッチのお弁当は少々有難迷惑と言える。それにしてもとんこつのカップラーメンなどどうやって手に入れたのだろう。おそらくとても高価だったに違いない。ボクらを迎える伯母の心遣いが感じられた。ボクらは笑顔でお弁当作りに励んだ。

いつもはニューヨークタイムズを熟読しながら1時間もかけて朝食を摂るトムが今朝は急いでいる。ボクが予約したミッドタウンのレンタカー屋に送ってくれると言うのだ。ここまで過保護でぬるい旅立ちはポリシーに反するが,伯父の申し出を断るのは不可能である。ゲルマン民族の血を引く伯父のやさしさと頑固さは筋金入りである。

2.放るもん

アラモレンタカーは最安値と言うわけではなかったが,サイトの作りが外国人にも分かりやすかったので選んだ。地元のレンタカーの中には「アジア系,アフリカ系の人は借りられません」と人種差別丸出しの注意事項を掲げたサイトもあった。法律的に大丈夫なのだろうか。先進的なカリフォルニアなどに比べると東海岸の人種差別はまだ根強い。今はどうかわからないが,20年前にはテキサスや南北カロライナなどいわゆる南部地方には危険だから個人では行かない方がいいと地元の人に言われたことがある。

車種はコンパクトカー。以前,バルセロナで車を借りたとき,予約したスポーティカーがトラブルで準備できないと謝罪されたことがある。代わりに同料金で最新のメルセデスのワゴン車を出してもらったはいいが,車を離れるときにいたずらや車上荒らしの心配をしなくてはならず,気を使って疲れた。それ以来,レンタカーでは専らコンパクトカーを借りるようにしている。町のパーキングにも停めやすいし,車内に重くて高価なレンズをたくさん隠しておいても車上荒らしの心配がない。

今回もアラモレンタカーの窓口で最低限の任意保険以外,セーフティ関連のオプションもグレードアップの勧めも全て断った。あんまりショボいと思われるのも癪なので代わりに5ドルのドネーションを申し込んだのだが,その甲斐もなくプラットホームに準備された車は10年前のミラージュだった。ホイールもスティール製で2本はカバーが外れていた。ここまでのオンボロ車はボクのレンタカー史上初だった。しかも外国で日本車を借りるというのもテンションが下がる。まあ韓国車でなかっただけよしとしよう。

予約時にE-ZPassのオプションには申し込んであったのだが,前日にトムが電話でキャンセルしてしまった。オプション代が高すぎるので自分のE-ZPassを貸してくれると言う。

E-ZPassは日本のETCとほぼ同じ仕組みの料金支払いシステムである。もともとはニューヨークの交通渋滞対策として,外部から市内に入る車に料金を課す目的で導入された。今は地方都市のバイパスやトンネル,橋などの有料道路にも使われ全米に波及しつつある。有料道路と言ってもそれは限定的なものでほとんどの高速道路は無料でこれはヨーロッパでも同様である。

日本の高速道路料金はドイツやアメリカの10倍以上する。そして通行料のほとんどは国交省の天下り先になっている公団や役に立たない公益法人の維持に消えていく。恐ろしく豪華な設備を備えたサービスエリアの利権も問題である。高額のテナント料を払える店舗のほとんどは大資本のチェーン店が占めている。一度乗ったら目的地まで下りづらい通行料金システムのために,ガソリンは信じられないような高額で公然と売られている。そしてそれらの利益はすべて中央が吸収していくようにできている。地元にはせいぜい僅かな雇用を生む程度で何の利益ももたらさない。日本のドライバーはお人良しのお大尽である。通行料金が本当に安全や維持のためにだけ使われていると本気で信じているフシがる。

ヨーロッパでもアメリカでも高速道路の保守は地元の自治体が担い,ドライバーは食事や給油のためにインターを下りる。急ぐ旅でなければ街まで走って地元にお金を落としてくれる場合も多い。トイレはガソリンスタンドや食堂が提供する。高額な建設費を必要とするトンネルや橋を除けば,どこの国でも高速道路は当然のように無料である。

今回の旅で確実に通るであろうカナダの有料道路や橋でもE-ZPassが使える。ニューヨーク市内に帰るときにも必要である。オプション料金は高かったが,E-ZPassしか使えない場所も多そうなので予約時に機械を借りることにしていた。

さて話は少し逸れるが,ボクとドレミが生まれ育った東京西部ではホルモンというものを食べる習慣がなかった。テレビ番組などで見るホルモンの焼き肉や鍋はとても美味しそうだがまだ食べたことはない。そのホルモンの語源だがドイツ語ではなく大阪弁の可能性が高いらしい。なるほど納得できる。「放る」という大阪弁には標準語にはない温かさや柔軟さを感じる。英語の「Through away」にもまたそんなニュアンスがあるのかもしれない。ボクたちの借りるミラージュにはE-ZPassの機械がついていた。このオプションを断る人はいないからだろう。

「約束が違う。」

と,トムが受付にねじ込んだ。「昨日電話したはずだ。」「聞いてないわ。」的な会話がなされたと思うがボクには全く聞き取れない。結局,「あら,ホント。書類に申し送りのメモが書いてある。」ということで問題は解決したようだ。トムが「車についている機械はどうしたらいい?」と聞いたのはわかった。

「Through away」

と,アフリカ系の女性店員は答えた。身振りがついている。トムも答えた。

「OK. through away」

身振りがついている。

いやいやいやいや(;^_^A 二人の日本人はのけぞった。直訳すれば「捨て去る」である。車に戻ったトムは言葉の通り,両面テープでフロントガラスに貼り付いていたE-ZPassを取り外した。そして用意してきたガムテープで自分の機械を貼る。


「放った」方の機械はボクがグローボックスに仕舞った。もはや口出しのしようもない。料金所でトラブルがあってもガムテープの跡の除去費用をレンタカーに請求されても,それはそれでまた旅の一興である。

それにしても貼り付けただけで動作するならE-ZPassはETCに比べてずいぶんと合理的で高性能だと言える。電源の引き込みや面倒な登録まで必要なETCの取り付けはユーザーの負担が大き過ぎる。

結末はどうだったかと言うと機械は何の問題もなく各地で作動した。ガムテープの跡はボクが深夜に無人の駐車場に返却するとき,一生懸命爪で剥がして「放って」おいた元の機械を取り付けた。レンタカーからは,翌日「ご利用ありがとうございました。またどうぞ。」とのメールが届いただけで,何のお咎めもなかった。あるいはオンボロ車を借りたのが正解だったかもしれない。

3.ナビとスタバ

手を振るトムに手を振り返しながら車を出すと,立ち話をしていた見知らぬおじさんや道路工事の人たちまでが笑顔で手を振ってくる。ニューヨークらしいその光景の中をボクらは旅立った。

過保護な伯父伯母にサポートされた生ぬるい旅立ちから一転,突然にボクたちの冒険が始まる。ミッドタウンの道は一方通行が多くて慣れない者には走りにくい。右左折を繰り返してそれを抜け,リバーサイドのハイウェイ9Aに入ったところでまずは落ち着いた。ボクは右側通行,左ハンドルに困ったことがない。走り始めた途端に,頭の中でコトンと音がするように切り替わって順応するのだ。ちょっとした特技かもしれない。ドレミにWi-Fiを起動させ,行く手の適当なところをグーグルマップの目的地にして経路を確認する。紙の地図で旅した頃から変わらず,ボクは地図を見ることはしない。ドレミが道順を考えてナビゲーションする通り,正確にそれを辿るのがボクの役割だ。ちょうどラリーのドライバーとナビゲーターの関係によく似ている。ラリーの勝敗はナビゲーターの能力によって決まると言っても過言ではない。街中に入るとボクらの車のコクピットはまるでサファリのラリーレースのような緊迫感に包まれる。ドレミの指示は短く鋭くなる。現状の道とのギャップを確認するボクの声も冷静に低くなる。その緊張感がたまらない。だがドレミが順応するのには少々時間がかかる。そもそも普通の人はレースのようなナビゲーターに順応はしない。ドレミが慣れてくるまではある程度勘で走らなくてはならない。

ワシントンブリッジが迫ってきたところでマップのナビ機能を使った。車載のナビと違ってiPhoneは日本語で案内してくる。隔世の感がある。道路標識はほとんど番号と方向なので日本語で発音されても全く問題はない。ヨーロッパでカーナビを使うときはいろいろ困ったものだ。ドイツ語を言語に選ぶと何を言っているのかわからない。米語は分かりやすいが標識の文字と英語の発音には隔たりがある。おまけに標識の距離はkmで表示されているのに,ナビは「2マイル半で右折です。」などと案内してきたものだ。

ワシントンブリッジ

ボクたちのミラージュは首尾よくハドソン川の対岸を北上するハイウェイに入った。紅葉の美しい道だと伯母が言っていたが,あいにくの雨が次第に強くなりとうとう視界をふさぐほどの土砂降りになってしまった。

パーキングエリアの標識があったので寄ってみた。アメリカをドライブするのは,最も近くて2008年のオクラホマ旅行だったろうか。15年前である。

オクラホマ☆ミキサー

5年も経てば交通事情を含めてドライブの環境は大きく変化する。ちょっとした買い物や給油を通して少しずつそれに適応していかなければならない

もちろん戸惑ったり,失敗したりすることもあるが,それがまたボクたちにとっては刺激的な旅の醍醐味なのである。今回感じた最も大きな変化はクレジットカードの普及である。チョコレートひとつから自動販売機のジュースまで支払いはクレジットカード。現金に対応していないところも多かった。宿もオンラインで事前に支払うので,今回,東京で両替してきた5万円分のドルを,一週間足らずの貧乏旅で使い切るのはかなり難しい。もっともボクたちは残金をお礼とお見舞いとして伯母に置いて行けばいいので現金を使いきることにそれほど腐心する必要はない。

雨がやまないので,サービスエリアのコーヒーを買って,車の中でサンドイッチのお弁当を食べた。こんなときドレミはどこでも迷わずスターバックスのコーヒーを買っていた。スタバはちょうどドレミが留学していた頃にニューヨークでも普及し始め,通学の帰りによく利用したので彼女のお気に入りの場所になっていた。それが喫茶店の元祖たる日本に進出してこれほど店舗を増やそうとは思ってもいなかった。

ボクも喫茶店世代である。コーヒーには少々うるさい。だからスタバやコンビニのコーヒーはあまり飲まない。プラスチックの容器に馴染めないからである。コーヒーを飲むときに唇に当たる磁器や陶器の感触もまた味のうちだと思う。鼻はカップの内側に入り込み,アラブの偉いお坊さんが発見したしびれるような香りに包まれる。カップをソーサーに置くと液面に僅かなさざ波ができてそれがまた収まる頃に再び口に運ぶ。アイスコーヒーを注いだ銅製カップの鋭利なエッジとひんやりとした感触もまたいい。外側には凝結水の水滴がびっちりとつき,氷が金属に当たってカラリと高い音を出す。プラスチックの蓋に開いた小さな方形の穴からすすって憚らない人たちにコーヒーを語ってほしくないと密かに思っているが口にはしない。世の中には繊細な香りを感じる嗅覚や唇の触覚の鈍い人も多い。彼らにもまたコーヒーを楽しむ権利はある。



味音痴なドレミもまたプラスチックの穴飲み容認派である。今回はとうとうスタバのコーヒーを買わなかった。この日,一度は列に並んだがその値段に怖気づいて売店の機械で安いコーヒーを買うことにしたのだ。アメリカの物価高は予想以上であることを実感した。

4.アルバニーの思い出

ドレミのナビに従いインターステートハイウェイ87号線に入る。インターステートハイウェイは最もグレードの高い高速道路で日本の東名高速や中央道にあたる。アメリカのハイウェイナンバーは奇数番号は南北,偶数は東西に走る道につけられる。分かれ道の標識には「I-87 NORTH」と大書されている。「インターナショナルハイウェイ87号北行き」という意味で,外国人でも間違える人はいないだろう。インターを入っていきなり「浦和」方面と「仙台」方面の選択を迫ってくる日本の標識は異邦人はもちろん,地理に昏いドライバーにとって役に立たない。ぐるぐる回るナビの画面をのぞき込みながら車線変更してくる危険なドライバーが多いのも仕方ない。

87号の行く手は北に国境を越えてカナダハイウェイA15号となりモントリオールに至るまで無料で通行できる。ニューヨークから国境までは334マイル,東京から明石に相当する距離で,参考までに用賀から明石西までの通行料はETC割引料金で10,490円である。

行く手にアルバニーが近づいて来た。現地の発音はどう聞いてもアルバニーだが日本語ではオールバニーと表記される。ニューヨーク州の州都である。この街にはたくさんの思い出がある。ボクがNYCに留学中だったドレミを訪ねて渡米した22年前の夏,二人で2週間ほども滞在した。当時,従弟のケブンがアルバニーに住んでいて,夏の間留守にするのでアパートメントを自由に使っていいと言ってくれたからだ。ボクとドレミはまるで若者のように自由を満喫した。少々そのときの旅の思い出を紹介しよう。

ボクらはこの町を拠点に車でニューイングランドの東海岸を走り回った。メイフラワー号が上陸したプリマスの港で半日もスケッチし,ポーツマスでは軍人に案内してもらって米軍基地内にあるポーツマス条約の調印が行われた部屋を見学した。

ポーツマス条約の調印が行われた部屋

ケブンの家にあったサマーベッドを持ち出し,ロングアイランドのヌーディストビーチで日がな一日海水浴としゃれこんだ。浜で知り合った老夫婦の家に招かれ,ボクの運転でカマロをかっ飛ばしてケープコッドまでドライブもした。

ロングアイランド

メイン州では銃を持って海兵隊のゲートに立っているコワモテの黒人兵にドレミが「Hi♪」と声をかけ「ロブスターが安くて美味しい店知らない?」と聞いた。すると門内からもわらわらと兵士たちが集まってきてドレミを囲み,あそこがいいここがいいと衆議の結果,彼らが行きつけのバーを教えてくれた。そのロブスターの大きくて美味しかったこと。

タングルウッドには小澤征爾ホールがあって,夏には当時ボストン交響楽団の音楽監督だった小澤征爾さんご自身が音楽祭のコンサートを指揮しに来られた。チケットが高価だったのだと思う。貧乏なボクらは一週間前だったかに窓口へ行ってローンチケット(Lawn tickets)と呼ばれる芝生席の券を買った。芝生席とはホールの後方の庭のことで,開け放たれたドアからコンサートを聴くことができる。しかしホールの収容人数がとても多いため,実際にローンチケットを購入する人はあまりいないようだった。当日,いよいよコンサートが始まる頃になって,急に天気が崩れ激しい夕立になった。するとホールの係の人がボクたちを呼んで一階席の空席に入れてくれた。

ボストン美術館は世界一の浮世絵コレクションを誇っている。明治の初め,文明開化に浮かれる日本から,日本画や浮世絵を二束三文で買い叩いては片っ端からアメリカに運んだのだ。アメリカだけでなくフランスもイギリスも日本をはるかに凌ぐ浮世絵を所有しているはずだ。壺や皿を輸入するとき,浮世絵の価値を理解していない日本人美術商をうまく言いくるめて,シロツメクサの代わりに写楽や北斎の版画を詰め物にして送らせたという逸話もある。

そのコレクションを楽しみにボストンを訪ねたボクだったが残念ながら浮世絵はほとんど鑑賞できなかった。時悪しく,ちょうど「日本の戦争画展」が開催されていたからだ。太平洋戦争の従軍画家たちが戦闘の様子を描いた水彩画が中心で,こんなものまで米軍の手に落ちていたとは驚きだった。さらにその膨大な数にも驚いた。この特別展のために常設の展示が圧迫されて浮世絵が見られなかったのだ。がっかりしたボクはボストン名物のクラムチャウダーを食べながら

「また今度来る時は浮世絵が展示されてるか確かめてからにしましょうね」

と,ドレミに慰められた。若さ故,当時のボクたちはボストンが「また今度来られる」とても近い場所に思えていたのである。

アルバニーのアパートメントでドレミがバイオリンの練習をしているとき,ボクは徒歩10分足らずの公園に画架を立てていた。9.11の2ヵ月前のこと,可燃性のペインティングオイルをふつうに機内荷物に預けて日本から運べた。キャンバスはニューヨークの画材屋でまとめ買いした。野外で油をやると否応なくギャラリーを背負う形になる。2日目にそろそろ仕上げに入った頃,初日にも見ていた上品な感じの女性が声をかけてきた。

「How much is this ?(おいくらかしら?)」

単にほめ言葉だと思ったボクは照れながら,

「いやいやいや,ボクはプロの絵描きではないんですよ。」

と答えた。彼女は

「OK. And how much ? (ふーん,で,おいくら?)」

と言った。額装なし150ドルで商談が成立した。アルバニーはボクの絵が初めて売れた記念すべき町なのである。聞けば彼女は,ボクが風景の中に偶然描いていたアパートの住人だった。アルバニーの暮らしがとても気に入っていたが,仕事の関係で引っ越すことになったので,ときどきボクの絵を見て思い出したいというわけだった。野外で制作中の絵描きに値段交渉するのはありふれたことだと教えてくれた。およそこの国では絵の値段は購入者にとっての価値によって決まる。欲しい作品があって,値段が折り合えば買って部屋に飾る。That's it(それだけ)。資産や投機の対象としての絵画とは別のものらしい。ニューヨークのチェルシーやソーホーにあるギャラリーでは号(長辺のサイズ)にして8千円くらいから数万円までさまざまな値段の絵がごちゃごちゃに売らていた。プロとアマチュアの境もまたくっきりしたものではなくあいまいである。

あれから四半世紀,ボクたちはようやく再び87号を北に向かっている。ナビの用がない一本道に入るとドレミはよく眠る。危険なほど土砂降りの中を走っていてもすやすやと寝ている。目覚めたときに昔話を向けてみるが,半分ほどは記憶にない。彼女の特技である。この稿に22年前のことを少々細かく記したのは他でもない。備忘録である。いずれは紀行文にまとめてみたいと思う。

雨間に一時日が差すと,高速道路沿いの紅葉は息を呑むほどに美しい。色とりどりの木々の根元や合間が白い。石灰岩や頁岩の巨石が至る所に露出している。太古の海底が隆起し,ハドソン川によって浸食された台地が,やがて巨大なカルストを形成したものだろうか。NYCを外れて84号線を越えた付近からアルバニーまで150kmあまり,ずっとこの地形が続いている。たいへんな規模の石灰岩台地だ。ハドソン川の対岸にあるローゼンデールはアメリカ産セメントの5割近い産出量を誇っているそうである。22年前はこの巨石奇岩の景観に全く気付かなかった。若者はあまり地質には興味がないものだ。もっとも若者と言える年令ではなかったが…。

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