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ボクたちの冒険2/伯母と伯父

エアチャイナCA981便は定刻通り深夜12時にJ.F.ケネディニューヨーク国際空港に到着したが入国審査には中国人観光客の長い長い列ができていた。1時間ほどもその列の中にいる間、ボクと妻のドレミは気が気でなかった。ゲートの外に今年80歳になる伯父が迎えに来ていたからだ。


1.独系米国人の伯父

J.F.K.空港からマンハッタンまで、ボクたちはいつも地下鉄のAトレインに乗って行くのを常としていた。信念のようなものがあるわけではなく、ジャズのスタンダードにTake the "A" Trainという曲があって「何だかカッコいい」というだけの理由からだ。その実、ジャズは苦手で Take the "A" Train を一度も聴いたことがない。今回もAトレインを使うつもりで出発前に連絡したが、伯父が空港まで迎えに来ると言って譲らない。用で電話するたびに深夜だからと何度も断ったのだが、最後は「ゲートの前で待つ」と言ったまま一方的に電話が切れた。その頑固さはゲルマン魂であろうかと思う。伯父はアメリカ生まれだが先祖はドイツにルーツを持っている。

約束のゲート前で10年ぶりに再会した伯父はひと回り小さくなったように思えた。無理もない。80歳である。だが満面の笑顔と力強いハグは変わらない。ボクの大きなトランクを引っ張って行こうとするので慌てて制した。ターミナル循環のバスの車内では若い女性に席を譲られたが断った。そして女性に自分の元気をアピールしながら陽気に談笑し始めた。その途端、バスが急ブレーキをかけて伯父はよろけたが笑顔は絶やさない。

This is the New Yorker…これぞニューヨークっ子

である。

JFKから地下鉄のハワードビーチ駅まではシャトルと呼ばれるモノレールが走っているが,シャトルの開通前は駅までこの無料循環バスに乗ったものだ。もっとも普通の観光客は市内行きのバスやタクシーを使うし、地元の人は駐車場にマイカーを停めている。

集中ロックの反応を頼りに自分の車を探す。

伯父の車はマツダのMPVからトヨタのSiennaに変わっていた。2.4Lの力強いエンジンを積んだミニバンである。車を出す前にスマホを操作してすいているルートを選んでいる。フル装備なのにナビがない。なるほどとボクは思う。スマホの地図機能がここまで進んでくると、道路標識の分かりやすいこの国ではナビは必要ないのである。実際に滞在中にボクたちはナビのないレンタカーで北米からカナダを周遊してきた。

トムの運転は速い。ミニバンの排気量を生かして滑らかに加速する。運転しながら盛んにドレミに話しかける。その会話の中に正確な日本語の単語が混じる。ときには工事渋滞を指して「めんどくさーいデスネ」などとやる。彼の日本語力は高い。「面倒くさい」の使用法に関しては、以前丁寧に説明して正したのだが忘れてしまったようである。

何しろトムが日本語を猛勉強したのは60年前、大学生のときである。ピアニストだったトムは音楽大学で知り合った三つ年上の日本人留学生に一目惚れに痺れてしまったのだ。声楽科に学んでいたソプラノ歌手、若き日のメグミ伯母である。トムは日本語を必死に覚えて猛アタックを繰り返し、とうとう彼女を落とした。

袂の複雑に編まれたような誘導路を抜けてトムのトヨタはブルックリンブリッジに乗った。橋が投光されていない。時間が遅すぎるのだろうか。今回の滞在中にブルックリンブリッジの夜景撮影を目論んでいるボクはいささか慌てて伯父に質問した。

「Oh you are right(そう言えば…)」

と伯父は橋が暗いことにそのとき初めて気づいた。愛すべきキャラクターの持ち主である。照明については後で従弟のジェレミーに聞いたところ1時から夜明け頃まで消灯することがわかった。それならば撮影行に支障はない。伯父のミニバンは静かに深夜のマンハッタンに入った。

2.メグミ伯母との再会

ニューヨークに着いた翌朝は5時に目覚めた。ドレミが「エンパイアステートビルの方角が朝焼けしてキレイよ」と揺り起こしたからだ。ボクはカメラを持ってベランダに急いだ。ここはロウアーマンハッタンのトライベッカという一等地にある高層アパートメントの34階、景色はため息が出るほど美しい。

ミッドタウン方面(北)
ハドソン川(西)
川沿いのビルが建つ前はここから自由の女神が見下ろせた。
旧WTC跡(南)

リビングに戻ってレンズを片付けていると背後から

「シューイチさん、いい写真が撮れましたか?」

と、いつものように張りのある伯母の声がした。振り返って息を呑んだ。ぽっちゃり系だった伯母が見るかげもなくやつれ、豊かだった自慢の白髪は抗ガン剤の影響でほとんど抜け落ちていた。前夜、ボクたちが到着した時にはすでに休んでいたのでこのとき初めて伯母と顔を合わせたのだ。

伯母が背中の痛みを訴え、病院で膵臓ガンに蝕まれていることがわかったのは去年のことである。

アメリカの医療体制は日本よりはるかに進んでいる。さまざまな分野の専門医がチームを組んで情報を共有しながら治療にあたる。一人の医者を頂点にした封建制度のような組織の集合体である日本の医療現場は、同じ病院内でもカルテすら共有されていない。患者にとっては世界最低レベルではないかと思われる。

伯母は最初に整形外科を受診したが、その日のうちに同じ病院内でガンが発見され、たちまち内科医、放射線医、抗ガン剤専門医など、別々の医療機関に属する医師たちで構成される医療チームが発足した。数か月で膵臓がんは治癒した。しかしガンは肩の筋肉や脊髄などに次々と転移を繰り返した。悪性のガンに対し、高齢の伯母の体力や免疫力がついていけなかったのだろう。病状は芳しくない。

ボクたちが物価高騰と円安のダブルパンチを覚悟の上で、超格安チケットの20時間フライトに耐えてニューヨークにやってきたのは世話になったこの伯母に会うためである。世話になっただけでなく、何よりボクはこの伯母が大好きなのである。

「おはようございます。いい写真が撮れましたよー、あとで現像してお見せしましょう。今回もお世話になります。夕べはトムにすっかり甘えてしまいました。」

ボクは伯母の姿に動揺したことを気取られないよう努めて明るい声で言った。

「No problem」

伯母もまた素っ気ないほどの様子でそう答えた。日本人ならこんなとき相手に気を遣って笑顔を作るだろう。その点、伯母はすっかりアメリカ人である。「お迎えはトムにとって何でもないことだ」という事実を伝えるために表情までがにこりともせずに「No problem」と語りかけてくる。

3.伯母の来し方

伯母がアメリカに留学したのはまだ敗戦の空気が色濃く残る1950年代のこと。同じ時期に伯母の実兄(つまりボクたちにとっての伯父)もまたアメリカに渡った。決して裕福ではなかった義祖父と義祖母が長男、長女を当時のアメリカに送った苦労は想像を絶する。為替相場は150円などという生ぬるいものではない。1ドル=360円の固定相場の時代である。

渡米後の伯父と伯母の人生は分かれた。伯父は絵の才能を磨き、画家として大成した。そしてついにはフィラデルフィア大学の教授にまで上りつめた。頻繁に個展を開くためにミッドタウンの一等地にアパートメントを購入した。その作品は日本でも高く評価され、静岡県立美術館などに彼の作品が収蔵されているが、四角や三角、丸など単純な幾何学模様で構成される抽象画はボクには全く理解ができない。

一方、トムの熱烈プロポーズに押し切られて結婚した伯母は三人の子に恵まれた。夫婦二人とも音楽の道をあきらめて働きづめに働いた。そして子どもたちのために日系人に対する差別の激しかった田舎を引き払い、ニューヨークに引っ越した。両親の夢を引き継いだ長女ウィノーナはバイオリニストとなり、イギリスの楽団に所属している。毎日フェイスタイムで孫の近況を知らせてくる。彼女とボクたちはとても仲良しで、ニューヨーク、オクラホマ、ロンドンと彼女の所属先が変わるたびにボクらはその土地を訪ねた。ウィノーナと彼女の夫も来日の際、何度となくウチに滞在した。ボクらの教室をiSEEKと名付けたのも彼女だ。

長男は大学で教鞭を取り子どもが二人、次男は国連の職員で子どもは4人…5人だったかな。コネチカットの高級住宅地に買った家の庭は2000坪はあろうかと思われる。

およそ客観的に見るとトム伯父とメグミ伯母の人生は子どもたちのためにあったと言える。しかし二人の醸す温かさは格別だ。住まいは4台のエレベーターが24時間稼働している巨大アパートメントだが、そのエレベーターや駐車場への通路で、老若男女を問わず二人と挨拶を交わす住人のなんと多いことか。彼らは人の中で暮らしている。

滞在中のある日、トムの運転する車で出かけたときのことである。トンネルの手前で大渋滞に巻き込まれた。すると車の間を歩いてハンドクリームやら菓子やらを売りに来る人がいる。この町では珍しいことではない。トムはウインドーを下ろしてその女性を招き、商品は受け取らずに現金を渡した。困っている人を見分けることが簡単にできるらしい。道ばたに座る物乞いにもよく小銭を施す。

今回、ボクらがメグミ伯母に頼まれた最初の仕事は、日本食のスーパーに行って品質と値段を吟味し、日持ちする食材の詰め合わせを作ることだった。

それをペンシルバニアに一人で暮らす日系のお年寄りに発送した。親戚や友人ではない。戦後、日本を占領していた米軍人たちと結婚してアメリカに渡り、捨てられた日本女性たちのコミュニティへ寄付しているのである。

今でもそんなふうだから、二人が若い頃に教会で行っていたボランティア活動については言うまでもない。自分たちも決して裕福ではないのに困っている人への奉仕を厭わない。彼らの周りもそういう人たちであふれていた。そう言えば9.11のとき、伯母は教会の起ち上げた救護センターで主力として働いていた。留学中だったドレミも手伝いに参加した。

9.11の直後、ボランティアセンターで働く伯母

4.マンハッタンの一週間

伯母は毎日のように放射線や抗がん剤治療のための診察を受けていた。半分ほどはオンライン診察である。ボクたちはその診察時間に合わせて街に出かけ、それ以外の時間は家で過ごした。

伯母と日本語で話をする。

ボクたちにできることはそれだけだった。伯母は日本の話をたくさんしてくれた。それは60年以上前の日本の話である。

B29が頭上で焼夷弾を投下した。祖母は叔父を背に負い、幼い伯母と母の手を引きながら、助からないと観念し伯父を引き寄せて抱きしめた。そのとき伯母の見上げる空を一陣の風が吹き、爆弾は流されて町田の中心街の方に着弾して燃え上がった。その炎を見ながら自分たちが奇跡的に助かったことを知ったと言う。

父親(つまりボクたちの祖父)の実家は大きな紺屋を営んでいたそうだ。どこだったかしら。トーク?…トック、えっと、シュウイチさん分からない?

紺屋なら徳島ですか。

そう!トクシマ!!そこから毎日アイが山のように着くのよ。忙しいの。みんな走ってたわ。

使わない単語は忘れてしまっているが伯母の日本語は昭和の女ことばである。ボクにはそれがとても美しく感じられて好もしい。昔の日本語が時を越えて遠くニューヨークに残っている。確か2001年に会った時の伯母の日本語は可能動詞を作らない五段活用以外の動詞から「ら」は抜けていなかった。それが2006年にはしっかりと「ら抜きことば」になっていた。新しい(ボクの嫌いな)日本語は日本からの若い訪問者が持ち込んでくる。

紺屋の話は初耳だった。かつて北関東から秩父、多摩にかけては極めて良質な生糸の一大産地だった。そして明治維新政府の主力輸出物産として横浜港から出荷された。産地と横浜を結ぶ鎌倉街道や町田街道沿いにあった八王子、町田には集積地として空前の好況が訪れる。その地で紺屋を営んだとすればその利益は計り知れなかったであったろう。徳島から着く藍玉の荷が子ども心に焼きつくほどの活況は想像に難くない。

紺屋は跡を継いだ長男が博打に狂って潰し、土地や屋敷まで失ってしまった。奉公に出された祖父は、実直な人柄と聡明さを店の主人に愛され、奉公人でありながら国鉄の養成所へ入学させてもらった。鉄道の黎明期である。長じて鉄道マンとなった。伯母の思い出話はひとつひとつが短編小説のようだ。

料理をしたことのなかったトムは伯母が発症して以来、食料品の買い物や少しばかりの料理をするようになった。もちろんメグミ伯母の指示通り動くだけである。そして何より外出を控え伯母と家で過ごすことが多くなった。だからボクたちの一週間の滞在は彼を喜ばせた。伯母をボクたちに任せて、ボランティアの作業場やトレーニングジムに行く時間ができたのだ。無沙汰していた友人たちと過ごし、毎日楽しそうに帰ってきた。悲しい報せが届いたのはそんなある日のことだった。伯母はオンライン診察をした専門医から抗がん剤治療の中止を告げられた。治療の効果が全く上がらなくなったことが理由だった。

ドイツ語由来で日本ではケモと呼ぶが、英語の発音ではchemotherapy(キーモセラピー)と言う。最初に発見された膵臓がんにはとても効いたのに転移したがんには効果がなくなった。放射線治療は伯母の体力を考慮すると難しいそうだ。キーモ治療の中止は事実上の治療断念を意味した。メグミ伯母は「私は心が強いのよ。」と何度も口にしていた。それでも数時間部屋に引きこもった。トムは見るも無残であった。ボクたちの前で、大きな碧い瞳からボロボロと涙を流した。

「あなたたちはホントに仲がいいわね。見ていてほ…ほまえ…何て言うんだったかしらドレミちゃん…ああ、そうそうほほえましいわ。」

初日にボクたちの様子を見た伯母はそう言ったが、トムとメグミもとても仲が良い。ことばや互いを気遣う表情の端々にそれは滲んでいるが、外見からはなかなか分からない。そもそも彼らは食事をともにしない。食卓を囲むのは特別なときだけである。冷蔵庫には食材や伯母の料理がいつもぎっしりと詰まっていて、トムも子どもたちも伯母自身もボクたちのような訪問客さえも好きな時間に好きな食べ物を自分たちで準備して食べる。

レバーソーセージサンドの朝食を作るトム

伯母は驚くほどの料理名人だがその腕を振るうのは主にクリスマスや謝肉祭などの特別な日と親戚や教会のパーティのときである。もっともそれらはたいていごっちゃになっていて、伯母の料理と言えば20人前くらいの量が大きなバットにいくつも作られるイメージである。そう言えば大学生だったボクが初めて町田のドレミの家に招かれた日も、偶然来日していたメグミ伯母が

「ラザーニアをごちそうするわ」

と言って、晩餐のボクの皿にパスタの山を作った。これはドレミの彼氏を試すための苦行に違いないと思ったボクはおいしいおいしいとその三人前ほどのラザーニアを平らげた。伯母のボクに対する親しみや好感はこのときに形成されたに違いない。男はここ一番食べなければならないときがある。

ボクたちの披露宴にNYから駆け付けて讃美歌を歌ってくれた伯母

話が少し逸れてしまったが、トムとメグミには教会の行事やボランティア以外には時間をともにするような共通の趣味もなさそうである。あるいはシャイなために人前ではあまり表現しないだけなのかもしれない。それでもこの二人のオシドリぶりは親戚にも教会にもアパートの住民にも知れ渡っていた。

「トムは一人では何もできないでしょ?だからあたしはトムを看取ってからこの家を処分して次男の家の世話になるつもり。」

伯母はよくそう言っていた。姐さん女房だが、去年までの伯母の元気さとパワーを知る誰もがその言葉を自然なことだと感じていた。すべてのものに終わりはある。二人の深い愛はそういう形で閉じるものだと信じていた。それが逆になるという現実を本人たちもボクたち家族も受け入れなくてはならない。

5.銀杏の思い出

抗がん剤を中止すると伯母の体調は一時的に回復した。今回、料理のライバルたるボクはニューヨーク市内で手に入る食材を使った和食を毎日工夫して伯母にふるまおうと計画していたが、それは実現しなかった。抗がん剤の副作用で伯母はほとんど食欲がなかったからだ。体調が回復したことでいくらか食欲も戻ったが、ごちそうを食べられるほどではない。伯母を喜ばせたのはドレミが冷蔵庫の奥に見つけた手羽先で出汁をって煮たヒジキだった。そして茶碗蒸し。

ギンナンの話になった。この町にも立派なイチョウの木がたくさんあるが、もちろんニューヨーカーはギンナンを食べない。若いときに伯母はトムを指揮してセントラルパークでギンナンを拾い集めたことがあったそうだ。そのタイヘンな匂いのするバケツ一杯の実をアパートに持ち込んで処理しようとしたが伯母自身、幼い頃の記憶頼りでの作業である。何を失敗したのか作業中に果汁にかぶれて全身に蕁麻疹を発症してしまった。以来、来日してもギンナンが食べられなくなった。

ドレミは干し椎茸の戻し汁と日本食スーパーで買った白出汁を使い、具は椎茸とホウレン草だけの茶碗蒸しを電子レンジで丁寧に蒸した。伯母はそれをすっかり食べた。ホウレン草のお浸しも気に入ってレシピをメモしていた。だがニューヨークで売っているホウレン草はサラダで生食するための茎が細くて葉のパリっとしたものが中心である。お浸しにしたホウレン草は、スーパーの有機野菜コーナーでボクが見つけた日本風のホウレン草である。買い物担当のトムが同じものを見分けられる可能性は低い。

日本風のホウレン草をゲット!!

お浸しがよほど美味しかったのか、今度はカボチャの煮つけが食べたいから買ってきてほしいと頼まれた。時はちょうどハロウィンを控えた週で、カボチャは旬を迎えていた。ジャコランタンはもともとヨーロッパでは大きなカブで作られていたそうだ。アイルランド移民がハロウィンをアメリカに持ち込んだとき、北米にはカブがなかったので、ありふれた野菜としてカボチャが代用された。もちろん現代の美しいオレンジ色のカボチャは観賞用に栽培されていて、食用には白や薄茶色、そして緑色が主流である。高級食材を扱うスーパーや青果店ではねっとりとした食感の日本のカボチャも人気である。輸入ではなく地元で作られているようだが、名前はズバリ「Kabocha」である。ご存知のようにカボチャの語源はポルトガル語でカンボジアを表すCambojaである。

おそらくKabochaからカンボジアを連想できるアメリカ人は稀有であろう。白やオレンジのカボチャはPumpkin(パンプキン)、緑色はSquash(スクワッシュ)と呼ばれる。これもまたトムがふつうのSquashとKabochaを見分けられるとはとうてい思えない。

6.別れ

「他にボクたちにしてほしいことはないでしょうか。」

頼まれるまま、伯母の大事にしている掛け軸や有田焼の皿などをインターネットを使って鑑定した後でボクは聞いた(それらの品はそれほど価値の高いオタカラではなかったので伯母は少しがっかりしていた)。ボクたちはもっともっと伯母の役に立ちたいと思っていた。だが伯母は「ありがとう」と笑うばかりで何も頼んではくれなかった。

代わりに伯母はボクたちを遠くに住む息子たちに会わせたがった。少ない日程の中なのでボクらは伯母との時間を大切にしたかったのだが、伯母は半ば強引に二人の嫁と連絡を取った。平日だったのでどちらも約束は夕方になった。

ニュージャージーでもコネチカットでも従弟の一家はボクたちを大歓迎してくれた。とくに生粋のアメリカ人である二人の義従妹たちからは、日本から来たボクたちへの敬意と親しみがいつも強く感じられる。二人とも仕事のスキルが高く、子育てしながらの仕事にも関わらず夫の収入を上回っているらしい。このような教養ある人たちには差別感情が存在しないことは洋の東西を問わない。

冗談のように広い長男の家。20部屋くらいあった。

問題はこの従弟妹たちが英語で話すことに容赦をしてくれないことである。子どもたちまで含めて、ボクたちに思いきり話しかけてくれるのだが、バリバリのニューヨーク英語でまくしたてる。ドレミですらなかなかついていけない。ましてボクなどは1/3も意味が分からない。単語の意味を思い出した頃には話題ははるか先に移ってしまっている。これはニューヨーク市民に共通している。彼らはニューヨーク英語が世界標準語だと思っている。実際、その事実は認めざるを得ないが、ボクに言わせれば彼らの英語はなまっている。イギリス英語とそれを学んだボクたち世代の英語に比べて、いわゆる米語(現在、日本の学校で教えている英語も米語である)は母音の発音が並べてだらしない。「ビハインド」は「バハイン」、「ゴルフ」は「ガルフ」である。口をきちんと開け閉めしてきっちり発音しろと言いたくなる。その点、ウィノーナはたぶんドレミとの会話でそれを学んだ。彼女は慎重に単語を選び、クリアにゆっくりとボクに話しかけてくれるので会話が成立する。

コネチカットの次男の家 裏庭だけで1000坪はあった。

さて,DIYの達人であるトムは息子たちそれぞれの家に自分の作業場を設けていて道具も揃えている。訪問すると専らそこで子どもたちの注文品を作る作業の続きをしている。どちらの家も古い邸宅を買い取ったものなので日常的に修理を必要とする。伯父のDIYはとても頼りにされている。伯母はどちらの家でもほとんど動けずソファに座っていたが、孫たちに囲まれてニコニコと目を細めている。伯母はきっと彼女と夫のこの幸福をボクたちに見せておきたかったのだと思う。伯母の満ち足りた一生がそこにはあった。

4年前の夏のことである。メグミ伯母はイギリスのウィノーナ一家を含め一族郎党を率いて来日するという大計画を立てた。チケットの手配もした。孫たちに自分のルーツを見せたかったのだろう。どの家族も日本行を楽しみにしていた。

ドレミの留学や教室の子たちのニューヨーク旅行でひとかたならぬ世話になっていたボクは「すわ恩返しのときは来たり」と一行の温泉旅行の担当に立候補した。1年前からレンタカーでマイクロバスを予約し、塩原から鬼怒川にかけリストアップした宿を秋冬二度に渡って下見に行った。日光の寺社巡りを組み合わせるためである。パブリックな環境で入浴する経験を持たないアメリカ人たちのため、最終的には貸切にしてもらえる小さな宿を選んで女将と食事メニューの相談もした。

だがその大旅行は実現しなかった。旅行直前の春から新型コロナウイルスの流行が世界を襲ったからだ。フィックスだった半分のチケットは無駄になった。レンタカーや宿はキャンセル以前に営業不可能状態になっていた。

次男のケブンの家があるコネチカットはニューイングランド地方に属している。ニューイングランドは合衆国独立時の13州の中でもとりわけ歴史の古い4州の総称である。ケブン一家はボクたちの訪問日程を教会のハロウィンパーティに合わせて会場に同伴してくれた。ボクたちは昔ながらの素朴なハロウィンを体験することができた。

コネチカットのハロウィンパーティ

そしてトムはその帰り道にボクたちを直接JFK国際空港に送ってくれた。

深夜の出発ロビーの車寄せでボクたちはハグしてお別れをした。伯母は

「ドレミちゃん、シュウイチさん、また来てね。」

と、いつもの張りのある明るい声で言った。それは4人が何度となく繰り返したいつもの別れと変わらなかった。しかし見送る伯父も伯母も、そしてボクたち自身も、ボクたち夫婦が二度と再びニューヨークを訪れることのないことを知っていた。

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ボクらの帰国後に伯母から義母に電話があり、ドクターから余命数カ月を告げられたと淡々とした声で話していたそうだ。そしてその診断通り年明けの2月に伯母は亡くなった。ニューヨークは遠い。伯母と過ごした一週間がボクらの出来得るすべてだった。

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