#043 なぜ市場原理だけではダメなのか?
イノベーションは言うまでもなく、社会が抱える課題の解決によって実現するわけですから、社会に課題が有る限り、イノベーションに対する要請が尽きることはありません。一方で、例えばジョナサン・ヒューブナーなどの研究者が指摘しているように、人口一人当たりのイノベーションの発生件数は20世紀後半以降、明確な停滞傾向にあります。現実に社会にはまだまだ解決すべき課題がたくさんあるにも関わらず、なぜイノベーションは停滞しているのか?
イノベーションという営みは「経済合理性」と「技術合理性」という二つの制約条件のなかで課題を見つけ、それを解くというゲームです。私たちの社会はすでに数百年にわたってこのゲームを続けているわけですが、時間がたてばたつほど、二つの合理性を満たす解を見いだすことが難しくなるという宿命を背負っていることもまた認めざるを得ません。ここでは、この「経済合理性の限界」がどのようにして確定するのかについて考察してみましょう。
下図を確認してください。これは社会に存在する問題を「普遍性」と「難易度」のマトリックスで整理したものです。
世界に存在する問題を全てこのマトリックスに投げ込んで整理すると考えてみてください。
横軸の普遍性とは「その問題を抱えている人の量」を表します。つまり「普遍性が高い問題」ということは「多くの人が悩んでいる問題」ということになり、逆に「普遍性が低い問題」ということは「ごく一部の人が悩んでいる問題」ということになります。
一方で、縦軸の難易度とは「その問題を解くのに必要な資源の量」を表します。つまり「難易度の高い問題」ということは「解決するのに人・モノ・金といった資源がたくさん要る」ということになります。一方で「難易度の低い問題」ということは「解決するのに人・モノ・金といった資源が少なくていい」ということを表します。
さて、皆さんが投資家という立場で起業家を支援するとしたら、このマトリックスのどの部分に取り組みますか?そう、普通に経済合理性を考えればAのセグメントから手をつけるはずです。「問題の普遍性が高い」ということは、その問題を抱えている人が相対的にたくさんいる、つまり「市場が大きい」ということであり、「問題の難易度が低い」ということは、問題解決にかかる労力が相対的に小さい、つまり「投資が少ない」ということです。水が低い場所を求めて集まるのと同様に、資本は利益率の高い場所に集まりますから、Aの領域に取り組む人には他の領域に取り組む人よりも資本が集まりやすいことになります。
なぜ企業は巨大化したか
さて、話をもとに戻せば、そのようにして多くの人がAのセグメントに取り組むと、やがてこの領域の問題は解決されていくことになります。先述した通り、問題が解決してしまうとビジネスゲームは終了になるので、なんとかしなければいけないわけですが、ではどうしたかというと、ほとんどが「地理的拡大」をすることで、その問題を「先送り」することにしました。
で、結論はどうだったかというと、これが非常にうまくいったわけです。この「地理的拡大」というのは、このAの領域の問題にはとても馴染みが良かったのです。というのも「普遍的な問題」というのはつまり「誰もが同じように感じる問題」ということですから、アメリカでビジネスをやっていた人がアジアに地理的拡大を図る、あるいはアジアでビジネスをやっていた人がアフリカに地理的拡大を図る、ということをやってもスムーズに新しい市場で受け入れられたからです。
まさにこれをやって爆発的に経済を発展させたのが我が国、日本でした。昭和後期の日本の主要輸出品である自動車と家電は、どちらも「普遍的な問題」を解消してくれるものでした。「雨に濡れずに快適に移動したい」とか「食べものが腐らないように安全に保存したい」とか「暑くも寒くもない部屋で快適に過ごしたい」といった欲求は全世界的に普遍的なものです。このような「普遍的な問題」に取り組んだからこそ、日本の海外進出はあれほどうまくいったのです。
この領域の問題でビジネスを行うにあたってはスケールがカギになります。「普遍的な問題」ということは、国の東西、老若男女、貧富の差異によらず、皆があまねく抱えている問題ということですから、このような問題に関する解決策=ソリューションは「誰にでも受け入れられる」ものであることが求められます。
モノの生産には強烈なスケールメリットが働きますから、市場を細分化して細かく適応しようとするよりも、そのような普遍的な問題を最大公約数的に解決できるソリューションを開発して、それを世界中で売りさばく、というアプローチは競争戦略的にも合理的です。自動車の世界でこれをやったのが初代のT型フォードですし、我が国の家電産業のほとんども上記の戦い方を徹底して世界進出を果たしました。
なぜ19世紀末という特定の時期に「大企業」が生まれ、増殖していったかは上記の説明から明白になります。地理的にも人口動態的にも普遍的な問題を低コストに扱おうとすれば、必ず規模が重要な競争要因になるからです。
地理的に広範囲にわたる組織を運営するためには文書と権限規定から成り立つ巨大な官僚機構システムを必要としますし、コスト削減の強い圧力は上流から下流まで一気通貫するバリューチェーンを求めます。これらのシステムを企業組織の境界をまたがって構築しようとすれば、経済学者のロナルド・コースが指摘した「取引費用」「探索費用」「管理費用」などが積み上がって著しい非行率が生まれ、それは「誰でも買える値段で提供する」という戦略の阻害要因となるからです。
市場原理の限界に突き当たる
さて、このようにして地理的拡大を図ることでA領域の市場を拡大したとしても、これもどこかで限界を迎えます。先述した通り、グローバルというのは「閉じた球体」ですから、いずれは地理的拡大も限界を迎えることになります。するとAの領域については、ほぼ問題が解消されたということになり、別の問題に取り組む必要があります。
このとき「難易度のより高い問題」に取り組む、つまりBの方向に領域を移すか、「普遍性のより低い問題」に取り組む、つまりDの方向に領域を移すかは、それぞれの事業体によって変わってくることになりますが、基本的な選別のロジックとして、大企業であればあるほど、投資余力もあり、また必然的に大きな市場を求めることからBの方向へ、一方で規模のそれほど大きくない事業者は、投資余力がなく、またそれほど大きな市場を必要とするわけでもないので、Dの方向へと進出することになります。競争戦略が多様化するわけです。
さて、このようにして「問題の探索とその解決」を連綿と続けていくと、やがて「問題解決にかかるための費用」と「問題解決で得られる利益」が均衡する限界ライン、図Xにある「経済合理性限界曲線」にまで到達してしまうことになります。このラインの上側に抜けようとすると「問題解決の難易度が高過ぎて投資を回収できない」という限界に突き当たり、このラインを左側に抜けようとすると「問題解決によって得られるリターンが小さ過ぎて回収できない」という限界に突き当たります。
つまり、このラインの内側にある問題であれば市場が解決してくれるけれども、このラインの外側にある問題は原理的に未着手になる、というラインです。資本主義が解決できる「問題の大陸」はこのラインによって断崖として規定されます。
市場は経済合理性限界曲線の内側の問題しか解決できない
ミルトン・フリードマンに代表される市場原理主義者は、政府は余計なことはせずに市場に任せておけばあらゆる問題は解決していくと主張したわけですが、それは経済合理性限界曲線の内側にある社会課題だけで、ラインの外側にある課題は原理的に解決できません。
なぜなら市場とは「利益が出る限り何でもやるが、利益が出ない限り何もやらない」からです。確かにフリードマンらが指摘するように「市場が解決できる問題」について、市場はもっとも効率的にその問題を解くでしょう。実際に「長い近代」を通じて、私たちの社会が向き合ってきた「普遍性の高い問題」のほとんどは市場の働きによって解決してきました。
ところが先述した通り、そのような営みを続けていけば、どこかで「経済合理性限界曲線」の壁に突き当たり、「課題の探索空間」はそこで終焉してしまい、その壁の向こう側にある「普遍性の低い問題」あるいは「難易度の高い問題」については未着手のままに放置されることになります。ここに市場原理主義の限界があります。
希少な問題を解けるか
抽象的なのでなかなかイメージができないかもしれませんが、例えばこのような問題の代表例が「希少疾病に対する治療法・薬剤の開発」です。「希少疾病」とは「罹患する人が希少な病気」のことです。我が国の場合、具体的にその定義は「五万人以下」となっています。ガンの罹患数はだいたい年間でほぼ100万人ですから、希少疾病の罹患数というのはその20分の1以下ということになります。
1億人人口がいる国での5万人以下ですから、これを出現率で表せば0.05%以下ということになり、先ほどの枠組みでいう「普遍性の低い問題」に該当します。これはつまり、このような問題に取り組んでも株主が喜ぶような大きな売上や利益は期待できない可能性が高い、ということを意味します。
一方で、難病に対する治療法・特効薬の開発は常に「極めて難易度の高い問題」となりますから、投資額は大きくなる上、そもそも開発に成功するかどうかすら確かではありません。つまり「期待できる売上は小さいのに、必要な投資は巨大であり、かつ不確実性も高い」という営みだということです。
現在の社会システムを前提にしていれば、このような営みに資金が提供されることはありません。なぜなら株主資本は不確実性を極めて嫌うからです。結果として、このような問題は「利益限界曲線の外側」に位置することになり、資本主義社会に生きる人々は「経済合理性の大陸の崖っぷち」に立って、彼方の海上に浮かぶ巨大な「問題の島」を眺めることしかできません。
しかし、重い病気は常に当事者とその家族にとって人生を大きく左右する切実な問題であり、これを「普遍性が低い」「難易度が高い」と放っておくことは社会として倫理的に許されません。一人一人の人間の「生」にはゆるがせにできない尊厳があるのですから、それがどれほど希少で治療の難しい疾病であろうと、社会がその問題を放置することは本来、許されないことです。ではどうするか。市場原理に任せておいても、このような問題は「経済合理性の際」の外側にあるため、解決できません。
本書冒頭から見てきた通り、確かに私たちの社会の物質的課題の多くは、すでに解消されています。しかし、これを逆側から指摘すれば、現時点で残存している深刻な問題の多くは、現在の社会システムを前提にしていては解けない「経済合理性の際」の向こう側に横たわっているということでもあります。
テクノロジーによるイノベーションはまさにこの「利益限界曲線」を外側におし拡げるために行われるわけですが、現在でも特に、先のマトリックスのDの領域に位置する問題は、経済合理性だけに頼ったのでは解決することのできない問題として残存し続けています。しかし、これを「だから仕方ない」で済ますことは、私たちには許されません。民主主義を掲げる国において、そのような切実な問題が解決されずにいるというとき、その責任を負うべきなのは施政者ではなく、私たち自身だということをゆめゆめ忘れてはなりません。
三つの提案
以上の考察から、次の三点が結論として導き出されます。
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