現実は言語に先立つ

僕たちは言葉になっていないものを想像するのが苦手ですね。

例えばインターネット登場以前、何度もアイデアとして検討され、時には商品化もされた「テレビ電話」は、結局のところ社会に浸透することはありませんでした。

この現象については、その後「私たちは電話をする際、むしろ顔が見えないことを望むのだ」といった後付けの分析がなされ、それはそれで当時は説得力があったわけですが、現在の社会を見てみれば「顔が見えるコミュニケーション」は全世界に浸透しており、当時のしたり顔の分析は全くの誤りだったということがわかります。

この事例はいろんなことを考えさせられます。

一つには「経験の悪弊」ということ。例えば、インターネットが普及し、通信回線の速度が上がったことで「ネット回線を使って顔を見ながらコミュニケーションするサービスはどうだろうか」というアイデアが持ち上がった瞬間に、人がどういう反応をするかを考えてみるといい。

以前に、テレビ電話が浸透しなかったことを知ってる古い人であれば、「あのねえ、人間というのは顔の見えるコミュニケーションはかえって嫌がるものだんだよ。昔ね・・・」といったことをいって反論するでしょう。

一方で、そのような経緯を知らない人であれば「おおお、それはいいね、ぜひやってみましょう」という反応になるでしょう。つまり、このケースで言えば「長く生きていて、いろんなことを見てきた」という経験の蓄積が、かえって誤った判断の土壌になっているということです。

私たちは一般に多くの経験を積んでいる人ほど正しい判断ができる、と考えてしまう傾向がありますが、これはそれほど単純な問題ではないということです。

さて二つ目に、この事例が私たちに考えさせるのは「概念化の難しさ」という問題についてです。

僕は先ほど、いわゆる「テレビ電話」が社会に浸透しなかったにも関わらず、「顔の見えるコミュニケーションサービス=ビデオ通話アプリ」が世界中に浸透した、という対比を述べましたけれども、これら二つのサービスが「本質的に同じもの」だという前提に違和感を覚える人もいるのではないかと思います。だって僕自身もそうですから。

みなさんにもぜひ考えて欲しいのですが、今日、世界中でスタンダードとなっている「ビデオ通話アプリ」は、かつて「テレビ電話」と呼ばれたものでは何が違うのか?ビデオ通話アプリからテレビ電話を引き算したら、何が残るのでしょうか?

少なくとも一つだけ言えること、そしてとても重要なことは、「テレビ電話」が出てきた当時、私たちは、その機械、あるいはサービスの内容を表現する言語として、既存の「テレビ」という言葉と、同じく既存の「電話」という、二つの既存の言葉の組み合わせによってしか表現できなかった、ということです。

そして、多くの人は、二つの既存の言葉の組み合わせによって表現された「テレビ電話」という言葉がもたらすイメージによって、有用性や用途や利用シーンの想像を大きく限定され、あるいや歪められてしまいました。

ここがイノベーションにおいて難しいところです。

ルドルフ・カルナップ、ルードヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ノーム・チョムスキーといった人々をはじめ、多くの思想家・哲学者・言語学者が、私たちは言葉や数字や音符といった単位ユニットの組み合わせによってしか思考することはできない、ということをいろんな角度から明らかにしてきました。

この指摘を踏まえれば、私たちは「既存のユニット」の組み合わせによってしか思考できないということですが、にも関わらず、私たちはその思考を通じて社会変革やイノベーションを起こしていかなければならないのです。

これは「テレビ電話」に止まる話ではありません。例えば「資本主義と共産主義」「リベラルと保守」「受容性と閉鎖性」「多様性と画一性」といった用語を用いて考察される「未来の社会の有り様」もまた、結局のところ「既存の用語の組み合わせ」によってしかなしようがないのです。

と、このような指摘に対しては「だったら新しい用語を作ればいいのでは?」という反論があるかもしれません。確かに、その通りではあるのですが、このアプローチには二つの問題があります。

一つは、新しい用語は誰にもわからないということです。例えば、ここで私が「資本主義でも共産主義でもない、新しい経済システムとしてXX主義を提唱したい」といったところで、誰にも何も通じないでしょう。新しい概念や用語は、それが新しいからこそ、他者に理解してもらうことができません。理解できないものは当然広がりませんから、その用語が社会に浸透することはありません。

そうなると、これをわかりやすく説明しようということになるわけですが、ここで二つ目の問題が出てきます。すなわち、新しい概念や用語を、既存の概念や用語の組み合わせによって説明しようとすれば、それら既存の概念や用語にまとわりついている手垢やイメージによって、人の想像力は大きな制約を受けるか、あるいは歪められることになってしまうということです。

この二つ目の問題点こそ「テレビ電話」が浸透しなかったことの最大の理由があるように思います。私たちが現在、日常的に使っているFace TimeやLineやMessengerのビデオ通話アプリは、かつてテレビ電話と総称されていたものとは、やはり似て非なるものだったということですが、当時としてはそう説明するのが最も手っ取り早かったのです。加えて指摘すれば、こういった新しいサービスを社会に告知するための主要なメディアが、15秒のテレビCMだったという「メディア面での枠組み」に大きく制約されたということも言えるかもしれません。

昨今でいうと、このような「手垢のついたイメージの組み合わせ」になってしまっているなと個人的に思わせられるのが、いわゆる「空とぶクルマ」です。このコンセプトは、それこそ鉄腕アトムの時代から「未来の象徴」のように語られ続けてきているわけですが、いまだに社会実装の端緒にすらついていません。

この先、どのように社会実装が進むのか?はよくわかりませんが、ここで賭けてもいいと私が思うのが、仮に社会実装が進むのだとすれば、その時には「空とぶクルマ」という、今日用いられている説明概念は完全に消えてしまい「新しいコトバ」が生まれることになるだろうということです。

このように考えていくと、私たちは「言葉に頼りすぎない」ことが大事なのかもしれません。言葉に頼ってコンセプトを作り、それを他者に示し、共感してもらい、お金を集め、イニシアチブに参加してもらおうとすれば、必ず、そのコンセプトには「手垢のついた過去のイメージ」がつきまとうことになります。

ではどうするか?

方向は一つしかありません。「ビデオ通話アプリ」などの過去の用語が、先行する現実によって後付けで生まれているのだとすれば、私たちはまず言語をこねくり回す前に、現実のイメージを示すということが求められます。

つまり「現実は言語に先立つ」ということですが、これを実際にやって、その通りになった二つの事例を紹介しましょう。

一つはアラン・ケイの「ダイナブック」です。次の図を見てください。




この二つの図は、コンピューターサイエンティストのアラン・ケイ[1]が1972年に著した論文「「A Personal Computer for Children of All Ages」のなかで、ダイナブックというコンセプトを説明する為に用いたものです[2]。

女の子はタブレット端末で絵を描いているのでしょうか?男の子は明らかにゲームをやっていますね。いまから半世紀以上も前に、今日の子供達とコンピューターとの、微笑ましくも苦々しい関係がすでに描かれていることに驚きを禁じられません。

この話をすると、多くの人が「すごい、半世紀も前にタブレット端末の登場を予測していたのか」と反応します。しかし、それは完全に間違った解釈です。

アラン・ケイは、未来を予測してこれを描いたわけではありません。そうではなく「こういうものがあったら素晴らしい」と考えて、そのコンセプトを絵にして示し、それが実際に生み出されるように人々に働きかけたということです。

つまり、アラン・ケイが社会に提案したのは「予測」ではなく「ビジョン」であり「構想」です。そして、ここが非常に重要なポイントなのですが、ケイは、この「全ての子供達がコンピューターを使う未来」をビジョンとしてわかりやすく示すために「言葉」ではなく「イメージ」に頼ったのです。

なぜなら、当時のコンピューターのベストセラーは次のようなもので、ケイの人々に伝えたいと思っていた「子供達が将来使うコンピューター」とは全く異なるものだったからです。

1970年代のベストセラー IBMシステム360

確かに、過去の革命においては、言葉はしばしば決定的な役割を果たしてきました。フランス革命においてはロベスピエールによる「自由・平等・博愛」が、ロシア革命においてはレーニンによる「全ての権力をソヴィエトへ」が(ソヴィエトは元々はロシア語で労働者による評議会のこと)、中国革命においては毛沢東による「造反有理」が、人々を革命へと駆り立てるビジョンとして機能しました。

しかし、テクノロジーの飛躍的な進化がもたらす現実変化の速さに概念の進化・修正が追いつかない現在、言葉に頼って未来を語ろうとすれば、言葉の持つ慣性や質量によって、現実変化の推進力はブレーキをかけられることになります。これを避けるためにも、現在の社会では「言葉で未来を説明する」よりも、とにかう「現実の新しい姿を見せる」ことが重要になっているのではないかと思います。

ちなみに、アラン・ケイは、このダイナブックのプロジェクトを推進している当時、採用面接の際、自分のプロジェクトを説明するのに言葉を使わず、この画像をチラリと見せていたそうです。

要するに「言葉で説明してわかるものではない。ビジョンを実際に示して、それにすぐ反応できるかどうか」が重要であって、このチラ見せに反応して大興奮している人を積極的に採用する一方、いまいち反応の鈍い人はどんなに履歴書がピカピカでもバッサリ落としたそうです。センスが良いなあ。

あまりにも現実を超越している概念は言葉で示すことはできない、ということですが、この路線をさらに前に推し進めているなあと感じさせられるのが次のビデオです。

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