月の帳③

 果てのない落下の中、ホタルは目を覚ました。ホタルの体は、空を見上げながら降下を続けていた。月の大きさは変化がない。ホタルは空中で器用に体を捻って反転した。地面がぐんぐんと迫っていた。ホタルは来るベき衝撃に備えて体を丸めた。ホタルの体は木々が鬱蒼と茂る森に突っ込んだ。

 葉の騒ぐ音や、枝が何本も弾ける音が聞こえたと思ったら、全身に平手打ちをされたような衝撃を受け、最後には大量の水に体を包まれた。自分が水の中にいると気付いた時には、肺の空気をすべて吐き出してしまっていた。ホタルは慌てて水底を蹴り、水面から顔を出した。

 肩で息をしながら、バクバクと暴れる心臓を手で押さえて、辺りを見回した。ホタルは川の真ん中に浮かんでいた。見上げると、黒い空に穴が空いている。川をアーチ状に一部の隙もなく覆う木の枝を破ってここに落ちたようだ。

 ホタルは岸まで泳いで、川から上がった。すっかり水浸しになってしまった服を脱いで、固く捻った。水がバタバタと滝のように落ちた。足に絡まった藻を剥がし、服を二、三度強く叩いて、頭からかぶった。濡れた服は肌に貼りついて気持ちが悪かった。

 森は暗く、死んだように静けさに満ちている。空は木々の枝や葉が複雑に絡み合い、闇はどこまでも広がっていた。ホタルの空けた穴だけが月の光を招き入れ、水面から空へ向かって光の柱が立っているように見えた。

 ホタルは川に沿って、上流へ向かって歩き出した。石のように硬い木々を手で探りながら進む途中、地面を破って隆起している太い幹に何度も足を取られた。川に沿って歩いているはずなのに、水の流れる音も、生き物の声や羽音も全く聞こえなかった。自分の心臓だけが耳の奥で脈打っている。

 ホタルは声を出してみた。意味を成さない、言葉ではない「声」だ。声は響くことはなく、どこへも届かずに、ただ暗闇に押しつぶされた。自分の足が本当に前に進んでいるのかさえもわからない。自分の目や耳やそのほかの感覚器官が一つ残らず腐り落ちてしまったのではないかと思った。目も耳も無くなって、暗い森を深海魚のような姿で永遠に這い回るイメージが浮かんだ。ホタルはその虚像を散らすように頭を振った。しかしそれは影のようにいつまでもついて回った。

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