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葦津珍彦「時の流れ」を読み解く(4)「時局展望」第4回「国体論の将来 新憲法未解決の問題」

「時局展望」(昭和22年2月17日)第4回

 前回は葦津珍彦が神社新報紙上で連載したコラム「時の流れ」の前身であるコラム「時局展望」第3回「ゼネスト中止命令と労働運動の転換」について触れた。
 今回は昭和22年2月17日発行の神社新報第33号の1面に掲載された「時局展望」第4回を見てみたい。論題は「国体論の将来 新憲法未解決の問題」、署名は「矢嶋生」となっている。なお、本コラムは昭和41年発行の葦津の著書『日本の君主制』にも収録されている。同書は現在、『日本の君主制』「昭和を読もう」葦津珍彦の主張シリーズⅠ(葦津事務所)として増補再発行されている。

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 本コラムでは、前年に公布された日本国憲法の施行まで3ヶ月をきるなかで、特に象徴天皇の問題を取り上げ、「新憲法は過去の日本帝国の国体を変革したものであるかどうか」について論じている。
 新憲法制定前後、国会や法学者など識者の間において、「国体論争」が繰り広げられたのはよく知られた話である。帝国政府が「国体護持」を大前提としてポツダム宣言を受託した以上、新憲法によって国体は変革されたのか護持されたのか、国体は変更されたのか不変なのか、という問いは言うまでもなく重要なものであった。
 有名な論争としては、佐々木惣一和辻哲郎の間の佐々木・和辻論争、また宮沢俊義尾高朝雄の間の宮沢・尾高論争などがあり、本コラムでも佐々木の国体変更論が紹介されている。
 憲法学者であり貴族院議員でもある佐々木は昭和21年10月5日、新憲法案(帝国憲法改正案)を審議する第90回帝国議会の貴族院において、新憲法は国体を変革するものであると反対演説をおこなった。

 昭和21年10月5日の貴族院での佐々木の反対演説の議事録

 佐々木の反対演説もむなしく、貴族院は翌6日には帝国憲法改正案を議決した。改正案はその後ただちに衆議院に送られ、10月末には枢密院も改正案を可決、11月3日の公布となった。

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佐々木惣一氏

 佐々木はまた、雑誌『世界文化』昭和21年11月号においても政治的な意味での国体は新憲法によって変更されるのであり、精神的観念から見た国体も漸次変更されるであろうとしている。
 こうした佐々木の国体変更論に対し、和辻は翌年、雑誌『世界』第15号「国体変更論について佐々木博士の教を乞ふ」との一文を寄稿し、新憲法の象徴天皇条項をもって、天皇の本質的意義に変化はなく、国体は不変更・不変であるとした。この和辻の問題提起に佐々木が応答し、佐々木・和辻論争が展開されるのであった。

憲法と象徴天皇と葦津珍彦

 葦津は大戦後の各国、特に敗戦国の帝室・王室のあり方について強い関心を持っていた。葦津は本コラムに次のように記す。

前大戦に於ては、敗戦国のドイツ、オーストリア及ロシヤの王朝は総て亡びて終つた。今次大戦に於ても、イタリアの王室の存廃は、国民の間に激しい対立を生じ、世界の注目を惹いてゐたが、遂に昨年の国民投票の結果王朝廃止に決定した。
 其他今次大戦の戦禍を甚しく蒙つた欧州の諸王室の運命は、今なほ予測しがたいものがある。最も民主主義的な立憲的王朝と称せられたベルギイ、オランダを始め欧州諸国の王室の前途に就ては、或は復壁の動向を伝へられ、一概に断定は出来ぬが、概してその前途は暗いものの様である。

 こうした戦後の帝室・王室をめぐる世界的な動向のなかで、日本の皇室(葦津はここで「日本天皇制」「天皇制」と表現しているが)がどうなるのか、降伏以来、葦津もまた国民全体も関心を持っていた。
 そして、ついに新憲法が制定・公布されるわけであるが、そこでは帝国憲法における天皇の統治大権が削除され、天皇は日本国と国民統合の象徴とされた。この改変をどう理解すればいいのか、これは国体の革命的な変革なのか、葦津は本コラムでそのように問うのであり、そのなかで先の佐々木の国体変更論などを取り上げるのである。
 日本国憲法制定過程においては、例えば昭和21年2月の総司令部案(GHQ草案)には既に

第一条 皇帝ハ国家ノ象徴ニシテ又人民ノ統一ノ象徴タルヘシ彼ハ其ノ地位ヲ人民ノ主権意思ヨリ承ケ之ヲ他ノ如何ナル源泉ヨリモ承ケス

とあり、これ以降の憲法議論のなかでも天皇は引き続き「象徴」や「標章」として位置づけられ、ついに新憲法において象徴天皇として定まった。しかし、それでは具体的に「象徴」とはどのようなものかと問われると判然としないところがある。
 昭和21年7月の第90回帝国議会の衆議院帝国憲法改正案委員会で国務大臣の金森徳次郎は黒田壽男の象徴天皇の問題に関する質問に対し、

天皇の御地位、即ち國の象徴であり、國民統合の象徴であると云ふことは決して空なる文字ではありませぬ、現實の日本の國家に於きまして天皇の御行爲を見れば、國民が仰いで國の行爲なりと見、天皇を仰ぎ見る時に、ここに國民統合の人格化された姿が現はるる、斯う考ふることに基礎を置いて第一條が出來て居るのであります、

などと説明しているが、わかるようなわからないような答弁といわざるをえない。
 葦津はいう、

 新憲法の成立によつて、憲法そのものは決定されたけれども、その意義内容の解釈に就ては、なは大きな未解決の問題が残されてをる。「国民統合の象徴」とは、果して如何なる意義内容を有するものであるか。政府の説明のみで、十分明瞭であるとは云ひがたい。理論的に学問的に更に深く究明さるべきであらう。

と。すなわち「新憲法未解決の問題」とは、象徴天皇とは何かという問題であり、それは国体は変更されたのか否かという重大な問いにつながるものである。そうであるからこそ、「理論的に学問的に更に深く究明さるべきであらう」というのである。
 それでは以降、理論的学問的な深い究明はどのようになされていったのか。葦津は常に天皇・皇室の問題について考究を続けたわけだが、例えば「象徴」というキーワードに限って例をあげれば、それから15年後、葦津は天皇制を特集した雑誌『思想の科学』昭和37年4月号に「国民統合の象徴」との一文を寄稿し象徴天皇論を説き、橋川文三と論争を繰り広げるなどしている。なお、『思想の科学』の天皇制特集号は中央公論社が同号を無断で断裁したり、公刊前に公安警察や右翼関係者に閲覧させるといった「思想の科学事件」を惹起して話題となった。あるいは29年後、昭和51年の雑誌『祖国と青年』第25号に「天皇─象徴の憲法理論」との論考も発表している。今ここで、それらの内容を立ち入って紹介することはしないが、葦津は本コラムから数十年にわたって、言うなればその生涯にわたって、「新憲法未解決の問題」を考究し続けたといえる。葦津のこうした知的誠実さに敬服するものである。

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