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葦津珍彦「時の流れ」を読み解く(11)「週間展望」第1回「芦田新内閣成立 難航を重ねた組閣工作」

「週間展望」第1回(神社新報、昭和23年3月22日)

 前回は昭和22年5月12日発行の神社新報第45号1面に掲載された「時局展望」第10回「依然三党が鼎立 歴史的総選挙後の政界」を取り上げた。
 時局展望はこれをもってしばらく休載となり、9月から時局展望にかわるように「週間展望」というコラムの連載がはじまる。
 週間展望は政治、経済、国際などの分野にわかれ、長谷川了、矢部周、島田晋作の各氏が執筆している。各氏が執筆したコラムには大学講師や経済評論家など各氏の肩書も記されているように実在する人物でもあり、葦津の筆名とは考え難い。
 昭和23年に入っても週間展望の連載は続くが、そこでも長谷川了など葦津とは思われない人物が執筆している。おそらく昭和23年の週間展望で葦津が執筆したものは、政治分野として同年3月22日の神社新報第89号「芦田新内閣成立 難航を重ねた組閣工作」が初ではないかと推測される。 そのため今回は昭和23年3月22日発行の神社新報第89号の1面に掲載された週間展望の第1回「芦田新内閣成立 難航を重ねた組閣工作」について取り上げる。署名は矢嶋三郎となっている。

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 本コラムでは、この年2月、前年に誕生した社会党委員長片山哲を首班とする社会党と民主党の連立政権である片山内閣が倒れ、連立の枠組みはそのままに民主党総裁芦田均を首班とする芦田内閣が成立するなかで、芦田内閣の組閣完了にあまりに時間がかかったことを取り上げ、新憲法下での政治的不安定さについて検討する内容となっている。

片山内閣から芦田内閣へ

 昭和22年の総選挙により成立した片山内閣であるが、社会党と民主党、また国民協同党という革新と保守の合同政権はやはりうまくいかず、組閣の段階で様々な失態もあり、GHQとの微妙な関係のなかで政策をめぐり連立政権内でのごたごたもあり、最終的にはこの年の2月10日、片山は辞任を表明した。
 憲政の常道でいえば、内閣総辞職に伴って野党第一党の党首を首班とする内閣が成立されるものであり、当時の野党第一党である吉田茂率いる自由党は政権の譲渡を要求した。自由党としては、新憲法下初の内閣総辞職であり、ここで憲政の常道の先例をしっかりとつるくべきだという要求でもあった。

 これに対して民主党や社会党の方では英国流の所謂憲政常道論は現在の日本の国情に合はない、少なくとも講和条約成立に至るまでの日本は、挙国内閣或は連立内閣の方策を可とするといふ主張を以て対立した。自由党は、かやうな連立内閣は憲政の責任をあいまいにし特に今回の場合は社民両党の政権たらひ廻しを意味するものであり、片山内閣総辞職を無意味ならしめ国家の政権を私するものであり、断じて赦しがたいとして猛烈に反対した。

 こうした紛糾もあり、当時の衆議院議長である松岡駒吉が各党の党首を招請して会談をおこなったが、吉田はこれを拒否し、まとまらなかった。結局、首班指名選挙がおこなわれ、衆議院では芦田均が首班に選出され、参議院では吉田が選出される「ねじれ」が発生したが、憲法の衆院の優越の規定により芦田内閣が発足することになった。

 かくして民主党の芦田均氏は組閣工作に着手し、各党に対する交渉に入つた。自由党は予想の通りに入閣協力を拒否して在野反対党としての態度を表明した。

 芦田は挙国一致内閣を目指し自由党にも入閣を求めたが拒否された。当然、社会党との協力関係は盤石にしなければならず、片山の入閣を求めたが、それもうまくいかなかったようだ。芦田の片山への入閣要請と片山の入閣固辞について、葦津は次のような世評を紹介している。

芦田首班としては新内閣の基礎を安定させるためには、どうしても社会党の全面的な責任ある協力を確保したい。そのためには社会党首片山哲氏を是非とも入閣させようとして大いに努力した。然し社会党は他の閣僚の椅子に対しては相当強硬に要求するけれども、片山氏の入閣は固辞して受けない。これでは社会党は新内閣に対して発言権を保留しつつ最後の責任は回避しようとする肚があるのではないかとも疑はれた。

 その他、外相や農相など重要ポストをめぐって紛糾もあり、2月10日の辞任表明から約一ヶ月もの紆余曲折を経て、ようやくこの日、芦田内閣の認証式がおこなわれたというのである。葦津はこうした芦田内閣について、厳しい見方をしている。

かくして組閣進行中に早くも短命内閣説の予測意見が流布されるやうになる。[略]この組閣工作の経緯から推測すれば、新内閣にとつて与党間の足並みを揃へさせて行くのは今後も容易のことではなく、内閣不統一の故を以て短命に終るべしとの常識的予想も強らに否定しがたいものがあらう。

 ただし、こうした組閣の難航は、芦田内閣に限ったものではなく、片山内閣も同様であり、それ以前の吉田内閣もそうだった。

旧憲法時代には組閣は大抵、二三日で出来た。殊に政民両政党時代には数時間にして組閣といふ様な例も珍しくはなかつた。外国の場合を考へても近年の日本の様に、組閣に長日月を要する例は少ない。研究すべき課題であらう。

 その上で葦津は、米国における大統領の強固な立場や、英国の国王による首相の指名、あるいはその他欧州におる大統領による首相の指名などの事例を紹介しつつ、

然るに日本に於ては英国々王や大統領に比すべき権限は何人にもなく、指命権は七百数十名の議員から成る国会に直接に所属してゐる。松岡議長が奔走しても自由党総裁に一蹴されれば何の力もない。然も政党は二大政党に整理されず四分五裂してゐる。首班の指命が決選投票で定められたにしても、容易に各政党の協定が出来ぬ、これでは組閣に一ケ月を要するのも無理ないこととせねばならぬ。然しながら政変のある度に、毎年一度も二度も繰返さるる政変の度に一ケ月もの組閣のための政治空白を余儀なくされてゐたのでは、日本の政治は到底安定を期しがたいであらう。深く思をこらして研究すべき重大なる問題であらう。

と本コラムを結ぶ。
 こう見ると、葦津は強固な政権の誕生のために、諸外国の事例に従って、暗に戦前の大命降下のような天皇による支持を期待しているのかとも考えられるが、さすがにそれは葦津のバランス感覚においてはありえないとも思える。これまでの時局展望で葦津がかねてから懸念を表明しているのは、少数政党の乱立による政治の不安定さであるが、一方で小選挙区制度のような死に票の多い制度にも注意を促すような、きわめて現代的な政治感覚の持ち主が葦津である。
 事態打開のため、これからの政治がどうあるべきか、何よりもまず政治家と有権者たる国民に葦津は考慮を求めているのだろう。

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