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拝啓 小学生の自分へ。 オモコロデスゲームを観てください。

※ネタバレを含みますのでアーカイブでの視聴を予定している方はご注意ください。

オモコロのイベント「オモコロデスゲーム」が今日開催されたので、配信にてリアタイ視聴をした。
めちゃくちゃ面白かったし、特に笑った所とかはアーカイブでも見直そうと思っている。元気出るし。
(原宿さんのブロウされながら伝言ゲームは死ぬほど笑った)

しかしどうも、なんというか、面白かったけど徹頭徹尾素直に笑えない自分がどこかにいた。

痛いし怖いのだ。

かんちさんの身体を張った罰ゲームや、みくのしんさんの精神が壊れてしまった様相に自分の心が引いてしまっている感覚が確かにあった。

そりゃ「デスゲーム」って名の付くコンテンツを自ら金銭を払って閲覧するので、そういう描写や「死」を連想させるような演出があることは覚悟の上ではあったんだが、思いの外受け入れられない自分がいたことに驚いている。

コンプラがどうこうっていう話じゃない。
面白いものを観ようと思って自ら手を出したのに、その面白成分を100%享受出来ない自分にショックを受けてしまった。

いや無理して全て面白く観る必要もないし、ご覧になられた方の中には折角金を払って観たのに不快な要素が多かったと感じる人もいるだろう。それはそれで存在して当然の感覚だとも思う。

なんでこんな事を考えているかというと、個人的に何かしらのコンテンツを享受する際「折角なら楽しみたいので色々と都合よく解釈しよう」というスタンスを持っているからだ。

これはアニメでも漫画でも映画でも小説でも漫画でもゲームでも舞台でもYouTubeチャンネルでもなんでもそうなんだが、何か不自然な展開や自分が好きじゃない演出などが起きた時に、「ふざけんな」「金返せ」と考えるより「なんでこうなったのか」「ひょっとしたら行間とか幕間にこういう出来事があったんじゃないか」「製作者側の都合がこうだったのかも」とか色々考えて納得のいく理由を探す癖を私は持っている。
その方が自分の機嫌を取れるし、スムーズにコンテンツを享受出来る。

今回のオモコロイベントでは、それが出来なかった。
普段の自分なら「かんちさんが元々行っていた表現を思いっきり開放出来る機会だったんだな」とか「みくのしんさん、あのぬいぐるみを記号としてではなく記事クイズも交えてきちんと意味のある存在にするためにこの方法を取ったんだな」とかなんとなく多少無理矢理にでもそう解釈して楽しもうとすると思う。その考えが合っているかどうかは別として。

きっと、小学生の頃の自分ならゲラゲラ笑っていたんだろう。ガキ使のケツバットとかも今では痛いと思うけど、当時は喜んで観てたし。

純粋に「面白い」を感じたいのであれば、何も知らず、何も考えず、ただ目の前にある事をそのまま受け取ればいいんだと思う。
年齢を重ねていくと色々と考える事が多くなってしまって、それが感情と結びついて、素直に受け取れていたものが受け取れなくなってしまうんだろう。

何かお笑いコンテンツを観る時だけ感性が「小学生の頃の自分」になるボタンとかないかな。対価として観終わった後に異空間で5億年過ごしても良いから。

だから、小学生の頃の自分よ、もし叶うのであればオモコロデスゲームを観てください。そして今の私より思いっきり笑って腹筋が壊れて翌日学校でも急に思い出し笑いして同級生に「うわ、思い出し笑いしてんの、エロッ」とか言われてください。

それが私の願いです。

敬具

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