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お酒について#23

漫画でも文芸でも、映画でもなんでもいいが、その内容がキチガイ的発想で、支離滅裂、創作物として体を成して得ない、人に見せる前提として一定の基準を満たしていなくても著作権、個人情報、映論(基準は非公開)等をクリアーしていれば法も人もそれを作る事も公開する事は誰も咎めない。

では、めちゃめちゃ書いたり描いたりしたら面白くなるのかと言うと当然別であって、制作側の立場で生活の糧を得たい希望者と、実際食べている人の値は釣り合っていない、その現実の壁に努力だけで超えられる表現者も存在するし、努力だけでは超えられない表現者も存在する、その高き塀の存在は誰も知るところである。へー。

例えば「写真」は世代として篠山紀信やアラーキーが有名で、個人的にスターであるし、今でもそうでしょう、それはしかし「幻想」として自分で企画して自分で撮って自分で宣伝していたと思っていたが、厳密には違っている。

「漫画家」それは、出版社があり、担当編集者がいて、あの鳥山明にダメ出し続けた編集者が居たからこそ結果的にドラゴンボールがドラゴンボールに成り得た。みたいに、基本商業活動として上記の写真家2名も、たった1人ではその立場に成り得なかったでしょうし、その時の時代性や人材、偶然、広告会社が発案する時もあれば、自らが天才的に発案する時もあり、その時々のチーム、需要と供給、その規模、等々が稼働中の洗濯機を俯瞰した映像の様に右にぐるぐる、左にぐるぐる動いていたと分かる、が、もちろん撮られた写真は営、公、私、に区別できるのかもしれないけど、その区分を乗り越え、原始的表現活動の域に達している事は、すでに評価されていて、アタクシごときがこの令和2年で指摘する話ではない。

さて、文芸作家、西村賢太氏は、風俗云々の話より、ペットボトルを半分に切ったものを尿瓶代わりにしていて寝床においてあり、トイレに行く手間を省いているという自らの常識を平然と書く事が個人的に好きである。(今はトイレに行っているのかもしれない)

その際、目に捉えられないほどの飛沫が布団やベットに着床して、それがいかなる匂いを放つか、カビが生えるのか、想像力をたくましくされるし、その布団なりベットなりに引っ張り込まれる女性はどんな背格好なのか、その簡易的な尿瓶の話だけでも読者は楽しめるのである。

そう考えると、写真家や大きいお金が動く漫画家に対して、文芸は小回りが効いて、紙とペンがあれば、深夜トイレに行くのが面倒だから焼酎「大五郎」(これは想像、しかしそれは大きすぎる)を半分にしたやつにチンコを乗せて致す事を書けば、アタクシ的にはアラーキーの写真に匹敵して時折思い出す。

小回りが効くのは落語家もある、着物と高座と扇子があればいい。

しかし、落語家、噺家、ツイッターにおいて自由闊達に語ってる人はだいたい政治的に傾いており、意固地で、感情の赴くままに呟き「今日蚊に2箇所刺された、去年の今頃はそんな事なかった、なんで俺だけ?」みたいにまず面白くないし、読んで不快になる、芸人を志す事は畳の上で死ねない前提で挑めよという心構えは噺家を志さない人も知る内情ですが、ハートまで捨て身にならなくても、少しは商業に対して色気がある方が普通であると思う。

さて酒である、傍観者である事を許されるなら、表現活動家は酒を飲まない方がいい、飲まない方がいいが、全く飲めないでひねくれている表現者より、飲めるが我慢して創作活動をしている方良い、に旗を挙げましょう。

判定(フェミニストいないなら)コンビニで明日の朝食と1缶だけチューハイを買って帰る女、イーネ。 

以上。







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