アガサ・クリスティ「そして誰もいなくなった」というタイトルの変遷

「最後の晩餐」をイメージしたもの

兵隊島という孤島におびき寄せられて客たちが次々と変死してゆくというミステリーである。
わたしがある女性とこの作品を話していたとき、「以前はインディアン島という別の地名だったはず・・」と言い出した。
そこで調べたところ、島の名は「くろんぼ島」「インディアン島」「兵隊島」と目まぐるしく変わり、タイトルもオリジナルは1939年に"Ten Little Nigger Boys"で発表されたのだが、翌1940年にアメリカでの出版に当たって " And Then There Were None" と改題されたことが分かった。
その後にも "Ten Little Indians Boys" で出版されてみたり、タイトルがかなり混乱したことがうかがえる。

Ten Little Nigger Boys

ソ連時代の映画で、タイトルは10人の黒人

1939年初版「10人のクロンボ少年」から翌1940年に著者クリスティの意に反してアメリカで「そして誰もいなくなった」と改題された理由は,
いうまでもなく人種差別にあった。
知ってのとおりアメリカ人は今でもひどい人種差別をする連中だが、建前上は差別語に敏感なのである。
インパクトはだいぶ薄まってしまうのだが、ニガーという言葉を避けたというわけだ。
 これが世界の共通認識だと思いたいところだが、旧ソ連では違っていたようだ。上の画像は1980年代公開(日本未公開)の映画の宣伝スチールだが、下段のロシヤ文字はネグリチャートと読めるから、意味はおのずから明らかだろう。
 単なる人権意識の低さのなせる業とも思えるのだが、ロシア最高の詩人プーシキンには黒人の血が流れていたそうだから、ネグリチャートには差別意識は含まれていないのかもしれない・・・
 ところで1939年という年には独ソがポーランドに攻め込み、英仏はじめヨーロッパ各国がドイツに宣戦布告したことにより第2次世界大戦が開始された。
クリスティの本作品には戦争の影は一片もうかがえないと思えるだろうが、禍々しいまでの緊張感は、著者も迫りくる戦雲をひしひしと感じていたと思えてならない。
ポアロシリーズのいくつかの作品は、それとなくナチスドイツの伸長を警告しているし、クリスティ自身も第1次大戦中は医療事務にかかわったのだから、戦争の悲惨さは身に染みていたはずだ。
ドーバー海峡ふきんはいうに及ばず、島の位置に想定されたイングランド南西部のあたりにもドイツのUボートが偵察のために遊弋していただろう。

Ten Little Indians boys

早川書房の文庫版表紙

はなしはインディアン島に戻るが、上掲の表紙絵はかつて人気のあった真鍋博がインディアンを島の前面に描いたもので、これを超えるものができないと見えて、早川文庫はいまだに採用している。
島内の別荘の各客室にはマザーグース風の詩を書いた額が、またダイニングルームにはそれに呼応する10個の陶器人形が飾られていた。そして詩の内容に沿って殺人が行われ、殺された人数分の人形が消えていく。
詩に登場する10人と人形は、ときに黒人少年、インディアン少年、少年兵と変遷する。
この詩のオリジナルは1900年に"Ten Little Injun Boys" として発表されたものを、翌年"Ten Little Nigger Boys" と別人によって改作され、クリスティは後者を作品名に採用したのである。
最近のアメリカではインディアンも差別語として使わないようだが(野球やフットボールのチーム名も次々廃止改名)、戦前のイギリス人はインジュンとかニガーなどというあからさまな差別語を日常的に使っていたようだ。

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