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ヘロドトス「歴史」

無人島に持ってゆく1冊というのがあるが、自分にとってはまさにヘロドトスである。間をおいて3回読んだのだが、最後は前世紀のことなので久しぶりに字の大きくなった岩波の新版を読んでみたい。その前に記憶をたどって概要を書いてみたい。

「歴史」には、古代ギリシャ存亡の危機であった前後4回にわたるペルシャ戦争の経緯が描かれる。

ヘロドトスののびやかな筆は小アジアに起こった諸国の興亡からひもとき、旅好きだったこの歴史家はたびたび脱線してエジプトのミイラ製造法を語ったりもするが、ゆっくりとギリシャ連合とペルシャ帝国の決戦に向かって絞られてゆく。

紀元前5世紀、ギリシャはアテナイ、スパルタ、コリントスなど本土ポリスのほか、エーゲ海対岸の当時小アジアと呼ばれた現代のトルコ南西沿岸イオニア地方にも植民地ポリスを築いていた。

いっぽう現代のイランと重なる地に一大帝国を築いたペルシャは膨張を重ね、ダレイオス1世はその版図をさらに地中海地方に向かって広げてゆく。

圧迫される同胞を援けるためにアテネは海軍をイオニアにさし向けたものの焼け石に水、沿岸ギリシャ諸都市はなすすべもなくペルシャに吞み込まれてしまった。

ダレイオス1世は報復のためギリシャ本土に向かって陸海軍をさし向け、陸路から攻めるペルシャ軍はペロポネス半島北部に位置するマケドニアほかを打ち破るが、アテネに向かった海軍の航海中に嵐が起こり、最初の遠征は頓挫してしまう。


2年後にダレイオス1世はふたたび大軍勢を率いてギリシャに攻め寄せてきた。

これを迎え撃つギリシャ軍は兵士の数でこそ劣るものの、よく訓練された上に重装歩兵の密集陣形は効果的で、ペルシャ軍は容易に打ち破れなかった。

アテネにほど近いマラトンでの会戦においてもギリシャ連合軍はペルシャ軍を首尾よく打ち負かすことに成功した。

タイトルの上を飾る絵はラーメンどんぶりではなく、雷紋に縁どられたギリシャ兵の盾に描かれたペルシャ兵との一騎打ちである。前者の武具は青銅製の鎧兜と剣、ペガサスの描かれた盾は青銅と獣皮を貼り合わせてある。後者のほうは青銅の剣を持つものの、鎧兜は獣皮製だったという。


この10年後、ダレイオス1世の跡を継ぐクセルクセス1世が大軍勢を率いて3度目のギリシャ征服を試みた。

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スパルタ王の一人(2王政のため)レオニダスは2万の陸軍を率いて出陣するが、ペルシャ軍の侵入を阻止するため、わずか300人の兵士とともにテルモピュライの天嶮に籠って敵の大軍勢を悩ませた。

レオニダス以下全員討ち死にし、あっぱれ史上最高の名誉の死と称えられる。

上のブロンズ像は槍を構えるレオニダスで、盾に描かれたΛ(ラムダ)は王のイニシャルである。


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さて、ペルシャ戦争の天王山というより海戦なのだから日米戦を決したミッドウエー海戦に例えたいのだが、最大のハイライトはサラミスの海戦である。

海軍国アテネはペルシャ船の来航に備えて新しく軍船を建造し、市民は厳しい操船訓練に励んだ。

ペルシャは海軍をフェニキアに頼っており、エーゲ海を臨むサラミス沖にアテネとフェニキアの決戦が展開された。

クセルクセスは別の陸地の高みに玉座を据えさせて勝利を疑わなかったのだが、結果はアテネ軍の圧勝だった。動きの重いフェニキア軍船に比べてアテネの三段櫂船は小回りが利いたうえに練度が勝っていたのである。

上の図にあるように、アテネの軍船はまず相手の櫂をへし折って動きを止め、舳先の尖った衝角で横腹に体当たりして破壊したのである。

茫然自失のクセルクセスは力なく玉座から立ち上がり、ペルシャへの帰路に就いたことは言うまでもない。


王は去ったものの、残されたペルシャ軍は翌年になるとまたもやギリシャに挑んだ。だがまたもや陸海戦に敗れてしまう。

この後も両者の小競り合いは続くのだが、20年後にようやく和約が成立し、ここにペルシャ戦争は終わったのである。

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