見出し画像

ぼくのやりたいこと

さて、今日も書きましょう。ほんとは昨日書こうと思ってたんですが、思ったより作ろうと思ってたヘアピースに時間がかかって今日になりました。昨日はヘアピース2個作って絵も1枚描いて文章も1記事書く予定だったんですけどなかなかそこまではいかなかったですね、ツムツムやったからかな。知ってますか、今日6/22はいろんな吉日が重なってて今年の中でもかなり良きお日柄みたいです、昨日は夏至でしたしね、今日いい感じで過ごすと今年一年いい感じで過ごせるとかなんとか、いい日になるといいですよねーということでぼくは文章を書いてるわけですが、会社も休んで書いてるわけです。期せずして会社休んじゃいましたねー、昔はキチンと休まずなんでもやることがよいことだと思っていろいろやってきましたが、小さい頃も学校ちゃんと行ってましたし休んだ記憶は9,11の時テレビからとんでもないテロの映像が流れて来たのを見てこりゃ学校なんて言ってる場合じゃないわと思った時くらいですかね、今はなんかグッとくること心が動くことを優先させるようになってきました、というわけで休んで書いたり作ったりしてるわけですが、今日ぼくの実家では家の改装工事の真っ最中のようでさっき母から工事の様子の写真が送られてきました。ぼくは実家から東京に出てきてかれこれ15年は経つんですが20年弱は住んでいた家なわけでちょっとおセンチな気持ちにもなるわけなんです、たぶん人以上に空間とか家とか場所に対する意識とか思い入れとか強いタイプだと思うんですよね、中学生くらいまで寝る前に部屋の中の物の位置とか向きとかリモコンとか置物とかの位置を自分の気に入ったようになってるか指差し確認してから寝てましたもんね、ちゃんとなってないと、あ自分の中でのちゃんとなのでキレイかはまた別問題なのですが、ちゃんとなってないと気持ち悪かったんですよ、だんだんその傾向って薄れていきましたし人と一緒に住むようになったりして合わせることもぼくなりに学んだんでしょう、昔みたいなことは今はないですがでもこだわりは強いんだと思います。そう実家が改装中なんです、今より使い勝手も良くなるし楽しいことだと分かってはいるんですが同時に寂しさも感じるんですよねー、人間は変化を嫌うってこのことなのかな、でも新たな生活に一新していくことをこの吉日にできているというのはとても素晴らしいことなんだろうと思うんです。改装に至ったのは去年おじいちゃんが亡くなったんですよね、おじいちゃんは晩年ずっとリウマチを患ってたので生活の中で大変なことも多かったんだと思います、家のいろんな箇所がおじいちゃん仕様に改装されたりしてました、おじいちゃんのいない家、新しい形に、、いいことだと思います、いいことだと思いますがやっぱりちょっと寂しい、ぶっちゃけおじいちゃんが死んだ感覚全然ないんですよ、コロナで全然田舎に戻れないし田舎は新潟なんですが、ぼくとしては全然戻るのはやぶさかではないんですがいかんせん家族の手前なかなか難しいんですかね、ほんと行動に制限がかかるのってイヤですね、せっかく日本に生まれたからには自由に動いていたいってコロナ前では思わなかったことも思ったりします。コロナといえば病院への入場制限、あれなんとかなりませんかね、おじいちゃんの時も思ったんですけどさすがに怒りましたね普段怒ることって滅多にないしコロナコロナ世間がコロナコロナで騒いでるけどぼくは対応して緩やかに変わっていくことに変化して行く自信はあったんですが、人の生き死にに関わる時に会えないとは何事だ!と思いましたよそりゃ。なにが大事なんですかねみんななにが大事なんですか、決められたやり方に従わなきゃいけないんですかね、決められたやり方は正しいんですかね、正しいことはやらなきゃいけないんですかね、間違ったことやっちゃだめですか。そう思います。おじいちゃんが危篤になった時すぐに動けない、様子を見てすぐ動き出せない、アレはよくない、よくないと思います。なんですか、予防のために会えないって、どっかの国のスポーツ選手がオレはワクチンを打つくらいなら引退するって言った選手がいるんですが彼はオレは脚が折れてないのに手術はしないし薬も飲まない、いい飯を食って水を飲んで免疫を上げるって言ってたんですがおおかっこいいなと思いましたね。勇気があるなと思いました、世論がなんとなく変わっていかないですかね、まともなことを言う人間が増えて欲しいと思います、センスがないって絶望的ですしダサくて品がないのって最悪だと思います、かっこよくいきたいもんです!そうおじいちゃんはリウマチでこそあれ死に様はピンシャンコロリだったようで家族から聞いた話によると、それってかっこいいなと思いましたね、そんなに自分のこと話す人じゃなかったけどアルバムとか昔のやつ見返したりするとああかっこいい人だったんだなって思いましたね哲学があったんだろうな、植木が好きで将棋が好きだったな。葬式の時も参列したいって言ってくれてた人たちは大勢いたんですがこのクソみたいな状況のせいで断らなきゃいけないのが家族は辛かったみたいでぼくは叫びたくなりましたが、おじいちゃんの葬式はほんと寝てるみたいな顔してるおじいちゃんと最後の夜はぼくも同じ部屋で一緒に寝てお別れしました、死装束をみんなで着せたり好きだったもろもろ、おじいちゃんはタバコも甘い物も好きだったんですけど糖尿だのなんだので禁止されてるのが多かったので最後にそれをみんなで入れてあげてる時、なんだか泣けてきますね後ろに気配を感じたからぼくは振り返ったんですよね、そしたらおじいちゃんが僕ら家族みんなの後ろからこっちを見てたような気がして、ぼくはおじいちゃんとほんとはもう目を開けないおじいちゃんと目があったような気がしたんですよねなんだめっちゃ泣けてきた、来月の22日でちょうど一周忌だからでしょうか。ぼくがやってることを見たり聞いたり体験したり、ぼくがやってることを通して感性がより豊かな人が増えたらいいなと思ってます、自分が感じてたことの外側もしくはさらに深く、自分の枠の外側まで感じれるようになる、外側だから感じれないですけど感じれないことでも信じてみたくなる、ちょっとその気配を感じ取れる、そんなふうに今より多くの人がなってくれたらいいと思うしぼくはそのために何かやっていきたい。それが自分で自分を助けるってことにつながるんだと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?