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エモクラシーという言葉を聞いた

はじめに

デモクラシーではなく、エモクラシーという言葉を聞いた。僕の中で、もやもやとしたイメージが概念圧縮され言語化された瞬間である。

発端は、この人。

これを読むといいかも↓



デモクラシーからエモクラシーへ

デモクラシーとは民主主義のことである。
日本にはそれまでなかった考え方が行き渡り、江戸明治を超えて、大正デモクラシーと世間が騒いだ。
そして、100年間今の時代まで民主主義の時代が続くことになる。
多数が正しい時代である。

そして時は経ち、平成も終わり、令和という時代が来た。
平成後期頃からその空気は変わり始め、民主主義ではない何かが動き始めた。

この予感は間違っていなかった。


わかりやすいのは、熊本地震の時のライオンのデマだ。
熊本地震が起きた際、ライオンが動物園から逃げ出して街を歩いているとSNSに投稿された。
ここで、僕が言いたいのはSNSでデマを流したことが悪いとか、そういうということではない。

その投稿を見た人間たちが、「危ない」「知らせて投げなきゃ」「教えてあげなきゃ」という善意に駆られ、投稿を拡散したという点だ。
これはデモクラシーではない。共感を呼び寄せ、群衆を動かした、まさしくエモクラシーだ。


最近の痴漢に対する安全ピンの話もそうだ。
痴漢された時の対策として安全ピンで刺すというのは確かに自衛としては大きな効力を持つ。痴漢しなければ刺すことはないから大丈夫。そういう意見も理解できる。しかし、痴漢冤罪が多いというのも事実だ。痴漢などする気もない人間から冤罪のために電車に乗れない、乗りたくないという意見があるのも事実なのだ。

僕自身、何が正しいのかはわからない。
しかし、ここで言いたいのもその賛否ではない。共感を寄せ集めた群衆が正しくなるというのは、もはやデモクラシーではないということだ。

多くの人間は痴漢などせずに普通に電車に乗りたいという考えているが、そうではない少数の痴漢をする人間のために、男性は痴漢冤罪を気にして電車に乗れない。つまり、ただのマジョリティーではなく、共感のある方が優先され、いずれマジョリティーになるのだ。
(ここでは、電車に乗りたいではなく、痴漢冤罪になりたくない、である。)



さて、よく例に出すが「ガッチャマンクラウズ」というアニメがある。クラウズの名の通り、「群衆」をテーマにしているアニメだ。
内容としては、ガッチャマンという超能力を持つヒーローが登場するが、彼らが戦うのはその能力では解決できない敵、つまり社会や群衆、空気と言ったところだ。

(僕の中では、アベンジャーズやスーパー戦隊、アンパンマンに対するアンチヒロイズムとして、かなりいい作品だと思っている。)


見て貰えばわかると思うが、まさにこの作品は、エモクラシーの先取りだったといえる。

クラウズの二期で、空気が具現化されるという現象が起こる。世論の多くが考えていることが正しいと見なされ、それ以外のことを口にした時、その人物は宇宙人に捕らえられ姿を消されてしまう。そして、その空気はどんどん大きくなり、やがて「それは違う」「間違っている」と分かっていても誰も声を上げることも止めることが出来なくなったのだ。
そして、主人公たちは勿論ガッチャマンとしてヒーローとして、凄まじいパワーを持っているのだが、この空気を変えることが出来なくなってしまう。

【ネタバレになるので注意】
結局、主人公はこの問題を解決するために、自ら死ぬことを選んだ。他のガッチャマン達に自分に必殺技を放つように頼み、殺される様をテレビやネットで配信した。世間はやっとここで気が付いた。
膨れ上がった世間の「正しい」という考えを壊すためには、これ以外に方法がなかったのだ。



共感の時代に生きるということ

僕らは、デモクラシーより強力で、群衆を扇動できるエモクラシーという力を得た。
これは、テレビや新聞などの一対多数のメディアではなく、SNSのような無限の一体一を生むことができるインタラクティブ装置が出現したためである。人はより早く、より多くの人間と繋がることができるようになった。そして、人はより繋がることを求め、共感してほしいを求め、今日もSNSに自分の意見を投稿し続ける。
共感されるものはバズを生み、バスを生むために共感を探っていくことを惜しまず、インスタ映えやいいね稼ぎを行う。
いいねが来ることに承認欲求や自己肯定感を覚えた人間は、もはやそれが過激になっていることにも気付かず、モラルやルールを破ることに抵抗がない(場合もある)。バイトテロをYouTubeに投稿するなどそれが顕著だ。

平成後期から現在の令和初期は、間違いなくSNSを超えた共感の時代である。


これまでは多数派の時代であった。マジョリティーが正しく、優先される時代だった。
だからこそ、少数意見の尊重という言葉もあった。マイノリティーを迫害するのではなく、十分に話し合うと言うことで妥協点を探った。

しかし、エモクラシーでは違う。マイノリティーだろうと共感さえあればマジョリティーに変化する。

どんなに当然だったとしても、どんなにマイノリティーな意見だったとしても、可哀想だという意見が共感を呼べばそれがマジョリティーに変わることがある。

「ハゲワシと少女」という写真を撮ったケビンカーターは自殺した。エモクラシーに負けたのだ。他人から批判という意味だけではない。衝撃的な写真を世間は喜び絶賛するという考えに疑問を持ちながらも、そうすることしか出来なかったという意味でもある。


エモクラシーにおいて、僕らが知っておかなければならないことはたくさんある。

まず、共感力を問われることになる。マジョリティーに意見を傾けることはしなくていい。共感させれば良いのだ。

りゅうちぇるがわかりやすいが、番組内ではよく馬鹿にされるがSNSでは度々絶賛されている。昨今では、井出上獏君のようなジェンダーレスなモデルもいる。テレビでは男子なのに可愛いと紹介されるが、SNSなど若い世代では「なのに」という考えはあまりなかったりする。

つまり、必要なのは目の前の否定や既知のマジョリティーではない。今から、目の前の人たちの意見を変えさせるだけの共感だ。それがやがてマジョリティーになる。


次に、一般教養だ。この教養が、常識となり、もっとも共感しやすい部分となり、社会の大部分を占めるマジョリティーな意見となる。多様性はあろうと、日本に生きる上でモラルやルール、倫理観には幅がある。

この「ブラック・ミラー」というドラマはアホらしさはあるが、非常に怖い一面を教えてくれる。可哀想だという感情が共感を呼び群衆となり、1人の人間を社会的に殺すことを容易にし、政治や経済も感情で動かすことは可能だということだ。感情や共感が悪いことではないのは確かだ。しかし、倫理性や公平性、判断力を失ってはいけない。
学校や教育の意義をより問われることになるのは間違いない。


そして、何より、自ら考える力が必要だ。共感の時代だからこそ思考を止めてはいけない。
流されるところは流され、流れてはいけないところは立ち止まる力を持つことが重要になる。考えればわかると思うが、共感の社会では共感を生む側、共感を操る側にアドバンテージがある。勿論、共感する側が不利というわけではない。共感する側は流されるだけなので、マジョリティーに位置しながらコスパのいいポジションなのだ。

しかし、上でガッチャマンクラウズの話もしたが、空気を変えることができるのは頭を使い、声を上げるものだけだ。マジョリティーとマイノリティーを変換できるエモクラシーの社会では台頭するためには流されるだけ、共感するだけではやっていけない。

そのために、個人でのメディアリテラシーを高めることや一般教養、また常に疑うという力や共感を呼ぶために真を持つことを肝に銘じておくことが必要だ。

また流されないためには、常識ではなく、最適解を見つけることが対応策だと思える。今この場所、この状況において自分が正しいと考える最適解を出すことが流されず、真を持つということにも繋がるのではないだろうか。
例えるなら、Twitterでバズっているツイートでめ疑わしければ、リプ欄やプロフィールを見てみると実際それが本当かどうかわかることもある。善意で拡散することが返って問題をばらまく可能性があるということを忘れてはいけない。



エモクラシーは群の時代

エモクラシーは悪く言えば、ヒトラーのやり方に近いかもしれない。戦時中の日本にも近いかもしれない。ガッチャマンクラウズでも空気に流されるままの状況を戦時中だと表現していた。

勿論、エモクラシーが決して悪いという意味ではない。
マイノリティーの意見が聞き入れられるようになり、多くの人間やコミュニティが台頭してくることになるだろう。
僕もエモクラシーな社会は割と望んでいる。
しかし、デモクラシーが時に社会的な暴力を振るうことがあるのと同様、エモクラシーにも危険な一面があるということも忘れてはならない。

一対多数の時代は確かに終わった
しかし、だからと言って、一対一の時代になったのかと言われればそうではない。
一対群の時代が始まったのだ

インフルエンサー(影響ある人)を褒め崇め讃えフォローしていく少数のコミュニティが多く建設され、それが乱立していっている

僕の好きな落合先生や、最近話題の箕輪さん、ホリエモンなんかのインフルエンサーを見てればわかると思うが、完全にインタラクティブなコミュニティとして動いているわけではない。彼らはマイノリティーに見えて、多くの信者的なフォロワーを獲得している。一対一ではなく、複数の一対群が存在しているのが今の日本社会なのだ。

そういう意味では、ヒトラーのような一対多数なエモクラシーは不可能だ。しかし、信者を抱えるサロンのようなコミュニティにおいてのみで言えば、そのような雰囲気をつくることは可能だ。発端さえあれば、後は爆発的に共感を呼び起こせる可能性があるのが、このエモクラシーなのだから。

危険性はあるが、使いようによってはそれだけ社会を変える可能性を持っているということでもある。

僕自身、エモクラシーには結構期待を寄せている。

クラウドファンディングなんかはそうだが、共感を具現化できるサービスがもっと世の中に増えるといいかもしれない。社会がより良い方向へ進むと僕も嬉しい。



さいごに

僕は何度も言っているが、これからは個の時代ではない。群の時代だ。
人間が群れないことなどあり得ない。群れる理由、場所、手段が変わるだけだ。

しかし、だからこそ、そこで大事になってくるは自らで考える力ではないだろうか。
人間はスタンドアローンで多くを思考できる。
スマホやSNSは大事だ。しかし、共感や多数の意見に頼るだけでなく、ローカルで自身の頭で処理することを忘れてしまってはいけない。僕らが人間たるはその思考なのだから。


共感の時代も悪く言えば、同調の時代だ。
ザ・ビューティフルハーモニー
なんて、皮肉られないことを祈る。


#エモクラシー #デモクラシー #群の時代 #コラム #社説

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