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一次で落選したけど、僕はこんな小説を書いている 奇跡の値段 前編

この世には、二種類の人間がいると私は思っている。

神の存在を信じる人間と信じない人間。

神が存在するとも、しないとも、どちらとも言えないと考える人間は、神の存在を信じない人間だ。なぜなら、信仰とは、ただ信じると言う、その一事でのみ成り立っているものだからだ。

 その点で言えば、私は神の存在を信じていない。

どちらとも言えない。そう思っているから。

 しかし、最近、不思議な出会いを体験して、私の心は揺らいでいる。

 神が、その出会いを私に与えたのか、あるいは、それは奇跡のような偶然に過ぎないのか、大いに迷うところだ。

なぜ、こんな話をあなたにしようとしているのか、あなたは訝しく思うだろう。

 その理由を、あなたに告げよう。

私には、あなたが、私と同じように、神を信じたいと思っている人間に見えるからだ。

あなたは、奇跡を待ち望み、生きるための希望を欲している。違うだろうか?

        


 一



ディックが大きく振りかぶって、全力で球を投げてくる。歯を食いしばり顔が大きく歪んでいる。二歳も年下の僕に、前の打席、二塁打を打たれたのが悔しくてたまらないのだ。

そうやって力んで投げたとき、あいつの球が高く浮き上がるのが僕には分かっている。

 僕は、彼とは反対に力を抜いた。おじいちゃんのアドバイスを忠実に守るのだ。

 

ゲイブ、ここぞと言うときほど、力を抜くんだぞ。肝心なことは、それだけなんだ。


僕には、大好きだったおじいちゃんと、おじいちゃんが今いるはずの天国の神様がついている。神様は姿は見えないけれど、歌で僕を応援してくれる。

アアメーイズィーングレーイス―そう、心の中で口ずさみながら、バットの先をゆらゆらさせてリズムを取る。そうすれば、ボールは自然とバットに吸い寄せられるように向こうからやって来る。ほら、やっぱり!

僕は、自分が、人が大勢出入りしているスイングドアになった気持ちで、身体の軸を動かさず素早く身体を回転させた。それを教えてくれたのは、ベーブ・ルースだ。僕の名前と発音がよく似たニックネームの、その昔の野球選手が、古いニュース映画の中で教えてくれたのだ。

ほとんど、ボールがバットに当たった感触も無しに、ボールがレフトの空に高々と舞い上がる。ディックはこちらに広い背中を見せて、マウンドに突っ立ったまま動かない。僕の得意な顔を見るのが嫌なのか?自分の悔しそうな顔を見られるのが嫌なのか?きっと、その両方だろう。喧嘩では負けてばかりいる僕も、野球の時だけは、僕の方が、”Mighty”なのだ。

僕が一塁をゆっくり回ったとき、ディックは、ホームベースの方に身体の向きを変えた。

彼の背中を眺めながら、僕はことさら、ゆっくりとベースを一周する。学校で僕をいじめてだけいれば楽しいはずなのに、ディックは、週二回ある、このゲームに必ず参加する。それは、あいつも、野球が好きでたまらないからだ。僕が、あいつを心から憎めないのはそのせいなんだ。

 いつものように、気持ちよく、ホームへ凱旋―おじいちゃんがよく使っていた、その言い方が僕は好きだ―するはずだったが、その日は違った。味方だけでなく敵のチームも、大騒ぎしている。ホームランを打った僕の方には目もくれずに、だ。

「大変だ!〈オペラ座〉にボールが入ったぞ!」その言葉を聞いて、僕は驚き、ホーム寸前で思わず足を止めてしまった。

 ホームに着くなり、ディックが言った。

「おまえがボールを取ってくるんだぞ。飛ばしたのは、おまえだからな」有無を言わさぬ口調だった。

「そうだぞ、ゲイブ。おまえが〈オペラ座〉に行って取ってくるんだ」相手チームのメンバーは勿論、チームメイトさえ、ディックに同調して口々に叫んでいる。

 僕は、とんでもないことをしてしまったと言う、後悔の念でいっぱいになり、心臓が早鐘のように打ち出した。

しかし、一方で、僕は少しだけ嬉しかったのだ。何しろ、〈オペラ座〉の中にまでボールを飛ばした選手は、これまで誰一人としていなかったからだ。


         

 二



〈オペラ座〉の前に、僕は立っている。

勿論、僕の前に聳え立っているのは、パリの〈オペラ座〉なんかじゃない。ニューヨークのブルックリンに、〈オペラ座〉があるわけがない。

 誰が最初に、この古い屋敷を、〈オペラ座〉と呼んだのか、僕は知らない。たぶん、コーチのハワードさんだって知らないだろう。ハワードさんが、僕と同じ子供の頃から、いや、生まれる前から、この屋敷はあって、もうその時には、〈オペラ座〉と呼ばれていたに違いない。

 この屋敷が、〈オペラ座〉と呼ばれている訳は二つある。

一つは、この屋敷の形が、パリの〈オペラ座〉に良く似ていること。

 もう一つの理由は、この屋敷の住人に関わることだ。

噂だが、「オペラ座の怪人」そっくりの男が、この屋敷に住んでいると言うのだ。その噂もまた、いつから囁かれるようになったものか、誰も知らない。やはり、僕が生まれるずっと前だろう。

そもそも、僕は、「オペラ座の怪人」が、どのような人物なのか良く知らないのだ。ブロードウェイのミュージカルに出てくる怪人なら、ポスターで見て知っているけれど。

「オペラ座の怪人」は、ずっと昔に書かれたお話だと僕は聞いている。つまり、作り話だ。だから、この屋敷に怪人がいると言うのも、他愛ない噂話に過ぎないはずだ。子供の僕にだって、それくらいの分別はある。

 問題は、この〈オペラ座〉には、ちゃんとした人間が住んでいて、僕は、その人に会ったことがないばかりか、名前すら知らないと言うこと、そして、その人の屋敷の中に、僕が打ったボールが飛び込んでしまった、と言うことだ。

僕は、あれこれ思いを巡らせながら、〈オペラ座〉の玄関の前に、しばらく立っていた。


「はい、どなた様でいらっしゃいますか?」嗄れた、年配らしい男の人の声が、インターフォンから聞こえてきた。もう、後戻りは出来ない。ここで、逃げ出したら、ただの悪戯っ子になってしまう。

「僕の、あの、僕が打ったボールが、こちらの家に入ったと思うのですが」やっとの思いで声を振り絞って僕は言った。取り敢えず声は出た。心の準備をしていた甲斐があった。

「分かりました。今、お開けします」怒っている口調ではない。いや、待てよ、口の利き方からすると、この屋敷の主人ではないようだぞ。使用人だ。使用人というのは、いつも冷静で丁寧な口調で話すものだ。その落ち着き払った声と屋敷の立派さから考えて、使用人ではなく、執事、と呼ばれる人かも知れない。やはり、〈オペラ座〉の主人は、怒っているのかも。再び、心臓がドキドキした。汗も噴き出してきた。

 少し経って、玄関の扉が内側に開いた。高さが僕の背の二倍近くある大きな鉄製の扉だったが、ギィーッと言う、映画に出てくる古い屋敷の扉のような音は立てず、滑らかに、まるで自動ドアのように開いた。背の高い痩せた黒人のおじいさんが立っていた。短く縮れた真っ白な髪をしている。

「あなたでしたか」おじいさんは、僕を見下ろして言った。

「大変なことをしてくれましたな。とにかく、お入りなさい」

大変なこと!

その言葉が頭の中を、ブンブンと蜂のように飛び回った状態のまま、僕は、玄関から中へ、〈オペラ座〉の中へと足を踏み入れた。後ろを振り返ってみると、扉の後ろ側にプラスチックの箱のようなものが付いていることが分かった。滑らかに開いたはずだ。機械仕掛けの自動ドアだったのだ。


「旦那様、犯人が自ら名乗り出てまいりました」おじいさんが、屋敷へと続く道の途中で声を上げた。声を掛けた方角を見ると、庭の中に、ガラス張りの小屋のような建物があった。どうやら温室らしい。二台の車が収まるガレージくらいの広さがある。

 僕は、自分のしたことを忘れてムッとした。犯人。その言葉が胸に突き刺さる。

悪いことをしたのは確かだけど、わざとじゃない。その怒りのため、温室の天井、両の手の平を組み合わせたような造りの屋根ガラスの一部が割れて、穴があいていることに気付くのに少し時間がかかった。

 男の人が温室から出て来た。背の高い白人だった。四十歳くらいに見えるが、金髪が薄く額がかなり広いところを見ると、もっと歳がいっているかも知れない。眉根が寄っていて、唇はきつく結ばれ、やや、への字になっている。怒っているのだろうか?少なくとも、気分が良さそうには見えない。当たり前だ。僕は、大変なことをした犯人なのだから。

「そこの君」そう呼びかけた声は、やや甲高く、痰が絡んでいるように濁っていた。

「君か?私の温室にボールを打ち込んだのは?」声が低くなった。今度は、よく澄んだ落ち着いた声だった。相手も、少し緊張しているのだろうか?

「はい、僕です。本当に申し訳ありませんでした」生まれてこの方、使ったことのないくらい丁重な言葉で僕は謝った。ずっと昔、父さんがそうして、多くの人たちに謝っていた言葉と姿を、僕は無意識のうちに真似していた。

「君はいくつだね?」男の人が訊ねた。近くで見ると、彼は背が高いだけでなく痩せていた。見上げた彼の顔には、たくさんの皺が見える。五十近いのかも知れない。

「十歳です」僕が答えるのを聞いた後、男の人は僕を見下ろしたまま、しばらく無言だった。上半身は、素肌にチェックのワークシャツ、下は、着古したブルージーンズを身に付けていて、やはり、少なくとも、怪人ではなさそうだ。ワークシャツの胸元を大きくはだけて金色の胸毛をのぞかせている。肌に汗が浮いていて、胸毛が真夏の日差しを受けてキラリと光ったのを僕は見た。

「十歳か。てっきり、高校生くらいと思っていたんだが」男の人は、そう言って唇をきゅっと歪めた。への字の片方だけが真っ直ぐになった。もしかしたら、笑ったのかも知れない。

「こちらに来なさい、小さな強打者君。君のしたことを見せてあげよう」そう言って、僕を温室の方へ招いた。もしかしたら、温室の屋根ガラスを割っただけじゃないのかも?

 不安に襲われる僕を振り向くことなく、男の人は温室へ大股で歩いて行く。僕は、黙って後を追う。突然、ひりひりして痛いくらい喉が渇いていることに気付き、よく今まで受け答え出来たものだと、僕は自分に驚いてしまった。


 温室の中には、階段のような棚が、いくつも置いてあって、その棚に、びっしりと鉢植えの花が並んでいる。ランだ。僕はすぐに分かった。

父さんが亡くなったとき、教会に置かれた棺の上に、この花がたくさん置かれていたことを思い出す。

 あの時、僕は訊いたのだ。この花はなんて言う花?

母は、涙を拭いながら答えてくれた。

ランよ。綺麗でしょ?ゲイブ。

八歳だった僕は、それから何を話したか、覚えていない。ただ、人が死ぬという悲しい出来事に、その美しさは不似合いだと言う印象だけが僕の記憶に朧気に残っている。

 あの日の教会より遙かに多くのランがここにはある。それが、僕に、教会にいるような錯覚を起こさせる。

温室の中は、キラキラと輝いていて、ガラスの天井がステンドグラスになっているのかと僕は一瞬、錯覚した。しかし、キラキラ光っているのは、ステンドグラスを通った複雑な光のせいではなく、ガラスが砕け散って、その破片が温室の至るところに散乱しているからだった。大きさもまちまちな無数の破片が光を反射しているのだ。天井のガラスの一枚が割れて、四角く青い空間から、夏のニューヨークの日差しが直接差し込んでいる。

「天井のガラスが割れただけなら、まだ良かったんだが。運の悪いことはあるものだ」いつの間に手に取ったのだろうか、汚れて黒ずんだボールを右手で弄びながら、男の人が言った。

「君が打球を命中させたのは、こいつなんだ」悲しそうな声で言いながら男の人が目を遣った方を見ると、棚の上の一つの鉢が砕け散って、花と土が棚から地面にかけて大きく散らばっている。

「昔、ミッキー・マントルが打った場外ホームランの球が、スタジアムの近くを走っていた貨物列車の中に飛び込み、運ばれていた一頭の牛を死なせたと言う話を聞いたことがある」男の人の唐突な話に、何だか、とても嫌な予感がした。

「彼のホームラン打者としての凄さを伝えるための逸話なのだろうが、子供の私は、彼の打球の飛距離より、死んだ牛が可哀想でならなかった。なんて運の悪い奴。そう思って、胸が痛んだものだ。大人になった今では、食肉用に解体される運命が待っている牛をそれほど気の毒とは思わないが」しばらく間を置いてから、男の人は言った。

「しかし、大人になった今の私は、この不運なランを本当に可哀想だと思う」そう、つぶやいた後、男の人は顔を俯けてゆっくりと左右に振った。今にも涙がこぼれ落ちそうだった。悪い予感は的中したのだ。

「このランを、私は、宝物と言っていいくらいに愛していたのだ」

ああ、やっぱり!僕は、大変なことをしてしまった!

 地面に無惨に散らばっている花びらを僕はじっと眺めた。形が残っている、わずかな数の花は、人の顔のように見えた。舞台の上で、崩れ落ちて死んだ演技をしている女優のように僕には見えた。顔を形作っている花びらは、暗く沈んだ血のような赤と降ったばかりの雪のような白が絶妙のコントラストを見せている。その境目は、グラデーションになっていて、すべてが女優としての彼女を美しく見せるための化粧のようだった。

「たった一鉢だけ。三年前に、こいつを譲り受けてから大切に育ててきたのに」追い打ちの言葉をかけられて、僕の頭は真っ白になってしまった。みるみる血の気が引いて行くのが自分でも分かった。割れて散らばったガラスに乱反射する光が目に飛び込んできて、僕は、あやうく気を失いそうになった。二、三歩後ろによろめいてから、ふくらはぎに力を込めて持ちこたえた。落ち着いていたつもりだったが、僕の緊張の糸は切れる寸前だったのだろう。

「大丈夫か?君!」男の人のその声は、動転していた。

「大丈夫です」僕は足を踏ん張りながら、お腹に力を込めて答えた。

「本当にごめんなさい。大切な花をめちゃめちゃにしてしまって」最初に謝った時は、父親の真似をしただけだったが、今度は、心からの謝罪の言葉が自然に口を突いて出た。男の人の怒り、いや、哀しみが、僕にも、はっきりと伝わってきたからだった。

「僕はどうしたらいいですか?もし、弁償するとしたら…」

「それは、無理だ。こいつをもう一度手に入れるには、金だけじゃなく幸運も必要なんだ。それに、金だって、たぶん、君のお父さんが三ヶ月働いても稼げる額じゃない」そうか。金持ちというのは、いつも同じ考え方、言い方をするものだな。そう思って、僕は心が少し冷めた。落ち着きを取り戻した。父がすでに亡くなっていることを話そうと思ったが、返ってくる言葉が想像できる気がして僕は止めた。

「じゃあ、僕はどうしたら…。僕に出来ることはないですか?」

「うーむ」男の人は、しばらく口をつぐんで考え込んでいる。唇の片方が大きく歪んでいる。この人は、感情が揺れると、その癖が出るらしい。

「まさか、十歳の子供だったとは、な。とにかく、ここを出よう。家の中に入ってからゆっくり考えようじゃないか」男の人はそう言うと、温室を出て行く。僕もその後を追った。

「おーい、サム!鉢と割れたガラスだけは片付けておいてくれ」男の人は、おじいさんの使用人に声をかけた。

「分かりました。旦那様」サムが答えてこちらに向かってくる。僕の方をチラリと見て、いかにも気の毒に、と言った顔をした。

いや、なんて運の悪い奴。そうだったかも知れない。



          三



「退屈な話でしょうか?」男は、私に訊ねた。

「いえ、いえ、とても面白い話ですよ。あなたが、子供の頃、野球少年であったことは聞いていましたがね」私は答えた。

男は、二十代半ばのはずだが、その童顔のため、まだ十代と言ってもおかしくない。男は、私の返事を聞いて嬉しそうに微笑んだ。

彼の穏やかな笑顔は、時折、テレビで観るそれと変わりなかった。ただ、テレビの画面で見るより、彼の肌の色が、ずっと濃いのに私は驚いている。チョコレートのように艶やかで美しい。彼の祖母は白人のはずだから、もっと薄い褐色の肌だと、私は勝手に思い込んでいたのだ。私の家のテレビが古いから、人の肌の色を正確に表現出来ないだけかも知れないが。

「良かった。僕は、口下手なものですから。それに、随分と昔のことだから、思い出しながらの話になってしまいます。聞いているあなたは、さぞ、歯痒いことでしょうね」

「とんでもない。私も、あなたと同じような子供時代を送ったものだから、懐かしさが込み上げてきましたよ。休みの日は、朝から、グラブやバットを持って野球場に出掛けたものです。私の場合は、ただの空き地でしたが」

「そうでしょうね。僕の父が子供だった頃、男の子の誰もが、そうだったと聞いています。しかし、僕が子供だった頃には、すでに、僕のような子供は少数派だったのですよ。ほとんどの子供達は、外で遊ぶより、自分の部屋でテレビゲームをしていました」男は言った。そして、続ける。

「僕は貧しかった。いや、僕の住んでいる地区の子供達は、皆、世間から取り残されたように、貧しく、昔ながらの遊びしか出来なかった」

「でも、それがどんなに幸せな子供時代の思い出を作ったことか」

「そうですね。今になってみると、それが良く分かります」私の言葉に、男は、大きくうなずいた。

 私たちは、教会の礼拝堂の椅子に並んで腰掛けていた。

日曜日の午後。とっくに、ミサは終わって、残っているのは、私たち二人だけだった。

私たちは、この日が初対面だった。日曜のミサに、たまたま隣り合わせた男二人が、ミサの後も残り、子供の頃の話を語り合っている。いや、私はもっぱら聞き役で、語っているのは、男の方だ。

彼を教会で見たのは今日が初めてだった。私は、これまで、ほとんどミサに参加したことがなかった。毎週日曜日、ミサに通い始めるようになったのは、ここ二ヶ月ほどのことだ。彼の方は、これまでも何回か、この教会に通っていたのかも知れない。

「続きを話してもいいでしょうか?」190cmを優に超える彼が、私を横目で見下ろしながら言った。座っていても、その長身には迫力がある。

「勿論です。しかし、なぜ、初対面の私にそんな話をして下さるのですか?」私の問いに、

「この物語を語り終えたら、その理由を、お話しするつもりです」男は、そう答えて、その不思議な物語の続きを語り始めた。


          



〈オペラ座〉の中は、昔、映画で観た、イギリスの貴族の館の様だった。映画のタイトルは忘れてしまったけれど、父と二人、ポップコーンを食べながら観たことは覚えている。小さな子供が楽しめるような映画ではなかったから、父が、自分で観たくて僕も連れて行ったのだろう。父は、僕には筋が全く理解出来ないような映画が好きだった。ただ、スクリーンに映し出される映像が素晴らしく美しいことだけは、僕にも感じられた。

〈オペラ座〉は、玄関を入ってすぐの所が、リビングだった。それは、リビングと言うより、ホール、と言った方がふさわしいほど広々としていた。ここで、舞踏会が開かれても、少しもおかしくない。

リビングの真ん中で天井を見上げたら、その高さに首が痛くなりそうになった。

一瞬、そこには、大聖堂の天井画のような、天使たちが飛び回っている絵が描いてあるのではないかと思ったけれど、実際は、巨大なシャンデリアがぶら下がってはいるものの、天井には、ごく平凡な幾何学模様が描かれているだけだった。

落ち着いて良く周囲を見渡すと、リビングの色んな場所に、最新の家電製品が置いてあるのが分かった。僕のうちにはないもの、と言うより、母と僕が借りているアパート中の誰もが持っていないものが、誇らしげな風情で鎮座していた。

大型のプラズマテレビが、まず目に飛び込んでくる。その大きさは、学校で時折行われる、映画の上映会に使われるスクリーンにも負けないくらいだった。

壁では、レストランにあるような、巨大なエアコンが低いうなり声を上げて動いている。そのせいで、リビングは、外の熱気が嘘のように涼しく快適だった。

更に、僕が見たこともない家電製品がいくつもあった。たぶん、それらは、僕たちが買うには高価すぎるか、新しすぎて、テレビでは宣伝していないのだろう。

しかし、それら最新の家電製品は、なぜか、この古い屋敷にしっくりと馴染んでいる。今は、火が焚かれていず、黒々とした闇を内に包み込んでいる巨大な暖炉と同居していても違和感がなかった。

この建物は、古い由緒ある屋敷を長い時間をかけて少しずつ改装したものに違いない。窓枠はまだ新しいものだったし、壁紙の模様もまた、とてもモダンなデザインだった。しかし、その壁紙もまた、壁際に置かれている古い柱時計と不思議に調和していた。僕の背より高く見える、その柱時計は、夜中の十二時を打つと屋敷のどこかから悲しげな啜り泣きが聞こえてきても不思議でないほどの年代物に見える。

僕らが想像し語り合っていた、不気味なはずの〈オペラ座〉の内側は、予想もしなかったような心地よい空間だった。

みんなに話して聞かせたら、どんなに驚くだろう!

そう思った途端、しばしの間、忘れていた不安な思いが甦った。僕は、はたして、ここを無事に出られるのだろうか?

〈オペラ座〉の主人は、僕に背を向けたまま、リビングを、どんどん歩いて行く。屋敷の中に入った途端、心なしか、スッと背筋が伸びたように見えた。そして、どこかしら、威厳のようなものを纏ったように感じられた。大股でリビングを横切ると、固そうな木材で出来た立派なドアの前に立った。

「この部屋で、今回の君の不始末について話し合おうじゃないか。入りなさい」振り返って僕にそう言うと、ドアを開けた。主人の肩越しに部屋の中を見ると、真ん中に大きな机があり、壁伝いには、本がびっしりと収められている書棚が見えた。どうやら、書斎のようらしい。

 主人に続いて書斎に入ろうした僕は、ふと、以前、監督とコーチが声を潜めて話していた噂話のことを思い出した。ここ数年、この街に出没している、少年に「いたずら」をする大人たちのことだ。

大人がする「いたずら」が、僕たち子供がする「いたずら」とは違うものである事は知っていた。「いたずら」の具体的内容については、年上の男の子たちが話しているのを、僕は、偶然、聞いたことがあった。

 あの書斎に閉じ込められたら、どんなに大きな声で叫んでも、声はリビングに微かに届くのがやっとだろう。新しい恐怖で顔が強ばるのが、自分でも分かった。ドアの手前で、立ち止まったまま、僕は身を固くしていた。

「君がしたことに対して、正しく償ってもらうための契約書を作るだけだよ。安心しなさい」僕の心を見透かしたように、男の人は言った。

「契約書」と聞いて僕の心臓は縮み上がった!

安心どころじゃない。父さんが昔、その契約書でひどい目にあったことがあったからだ。僕にとって、「契約書」とは、悪魔の響きを持った恐ろしい言葉だった。

「契約を交わすのだから、お互い、名前を名乗るのが先決だな。私は、オスカー・ジュナイク」引きつった顔の僕に構わず、主人が名乗った。

オスカー・ジュナイク。〈オペラ座〉の主の名前。

〈オペラ座〉の主人にはふさわしくない名だ。もっと、古めかしく由緒ある名前だと思っていたのに。

「君の名前は?」声だけは、低く澄んでいて威厳があった。

「ガブリエル・ジョーンズ」悔しいけど、声が少し上擦った。

「大天使ガブリエルか。やはり、あのボールは、いたずら者の君の守護神がホームランボールを、空中で受け取り、空を運んで、私の温室の一番大切なランの上に落としたに違いない。君にとっては、とんだ疫病神だな」〈オペラ座〉の主―オスカー・ジュナイクさんは笑って言った。

「入りなさい、ガブリエル。いや、ゲイブの方がいいかな?」

「ゲイブでいいです」僕は、母が呼び、かつて、父や祖父が、そう呼んでいた名前を言った。そして、書斎へと足を踏み入れた。


 机を挟んで、ジュナイクさんと僕は、向かい合って座っている。机が巨大なので、椅子に座っているジュナイクさんがずっと遠くに見える。机の表面は、美しい木目で覆われている。僕が見たこともない豪華な机だ。

僕が座っている椅子は背もたれが高く、背中から頭まですっぽりと包まれている。ひんやりとした革の感触が心地よい。しかし、足は床に届かず、宙にぶらりと浮いている。何とも情けない気分だ。自分が子供なのが悔しかった。不利な立場の交渉とは言え、あまりに、ハンディがあるのではないか。

椅子に腰掛けてすぐに、ジュナイクさんは、机の上にあるインターフォンのボタンを押した。

―はい。

―アイスコーヒーを頼む。

―分かりました。すぐお持ちします。

若い女性の声だった。執事に女性秘書。僕にとっては、本当に、映画の中の世界だった。

「君は何がいいかな?」いきなり訊ねられ、思わず、「アイスティーをお願いします」僕は、そう答えてしまった。アイスティーなんて、これまでほとんど飲んだことがないのに。たぶん、この英国貴族の館のような建物にふさわしい飲み物だと思ったからだろう。

―それから、アイスティーも、一つ。

―はい。お客様用ね。

涼しげな声が聞こえ、ジュナイクさんは、インターフォンを切った。それから、僕の方にぐっと身を乗り出す。

「ゲイブ。私に提案があるんだ。突拍子のないものに君は思うかも知れないが、取り敢えず、聞いてくれるかね?」ジュナイクさんが僕に言った。僕を子供扱いしていない口調だったので、僕は少し気分が良くなった。

「ええ、いいですとも」思わず、使い慣れない言葉で答えてしまった。ジュナイクさんは苦笑いしたようで、片方の唇がきゅっと上がった。

「君は野球が得意な様だね?」ジュナイクさんが言った。

「はい」

「学校の勉強より?」

「勿論!」思わず大きな声で答えた僕が可笑しかったのか、ジュナイクさんは、今度は声を上げて笑った。

「君は、将来、野球選手になるつもりなのかな?」ジュナイクさんが更に質問した。

なれるものなら、なりたい。

しかし、それがどれほど厳しい道のりか僕は知っている。七十歳を過ぎても、あれだけ速い球が投げられたおじいちゃん、背骨が曲がった猫背のバッティングフォームで、僕が目を見張るような弾丸ライナーを打つことが出来たおじいちゃんも、若い頃、プロ野球選手を目指したが、3Aからメジャーに上がることは出来なかった。

「なれるとは思っていません。僕は、同じ歳の子供と比べて身体が小さいし、それに、小児喘息なんです。野球も、元々は、身体が丈夫になったらと思い、始めました。その頃、僕に出来るスポーツは限られていました。野球は、休んで呼吸を整える時間があるので僕にも出来たんです」僕は、正直な思いを告げた。

「君は、子供にしては自分を冷静に見ているね。私が子供だった頃は、もっと無鉄砲なことばかり考えていたものだが」そう言ってから、ジュナイクさんは続けた。

「君のホームランほど、君は、人生に無茶をしないと言うことかな」ジュナイクさんの目に、一瞬、失望の色が浮かんだように見えた。なぜだろう?


 書斎に、その女の人が入ってきた時、僕は思わず息を呑んだ。映画のスクリーンの中に自分が紛れ込んだ気が一瞬した。〈オペラ座〉に入ってから、それまでも、そんな錯覚をしていたのだが、今度は、錯覚ではないと思ってしまった。僕は映画の中にいる!

 彼女ほど美しい人を、僕はこれまで見たことがなかった。本当に!

「オスカー、こちらが場外ホームランを打った子なのね?」書斎に入るなり、彼女は僕を見遣って、そう言った。彼女は、秘書ではなかった。

セシリア・ジュナイク、つまり、ジュナイクさんの奥さんは、美しく気品のある女性だった。輝くようなブロンドの髪の先が、肩の上で踊るように波打っている。吸い込まれるようなブルーグレイの瞳には、どこか、いたずらっぽい笑みが浮かんでいた。

ジュナイクさんよりずっと若い。三十歳くらいに見えた。後には、当時、それよりずっと年上だったことを知るのだが、子供と言うのは、大人の年齢が良く分からないものだ。

「あなたのおっしゃる通り、冷たい紅茶をお持ちしましたわ。でも、あなたの小さなお友達は本当にこれで良かったのかしら?」彼女は、夫に訊ねた。更に、呆気に取られて彼女を見詰めている僕に向かって、

「やはり、レモネードの方が良かったかしらね」そう問いかけた。

「いえ、紅茶は大好きです」僕はあわてて答えた。しかし、実のところ、僕は、家でも外でも、紅茶をほとんど飲まなかった。

「ありがとう、セシリア。だが、この子と友達になれるかどうかは、まだ分からないのだよ」そう言って、テーブルに置かれたアイスティーを僕に勧めた。

「どうぞ、ごゆっくり。小さな強打者さん。あなた、お名前は?」奥さんが訊いた。

「ガブリエル、ガブリエル・ジョーンズです」

「じゃあ、ガブリエル、オスカーをよろしく。気難し屋だけど、それほど怖い人じゃないから安心してね」そう僕に告げて、奥さんは部屋を出て行った。その口調には、どこか、息子を気遣う母親のような響きがあった。

友達になる。そのジュナイクさんの言葉を、僕には不思議に思った。


「ゲイブ、私から君に提案がある」一分ほどの沈黙の後、ジュナイクさんが、言った。

もしかしたら、ジュナイクさんが黙っていたのは、ほんの十秒くらいだったかも知れない。しかし、僕には、その沈黙がずいぶんと長く感じられた。

「せめて、君が高校生だったなら、何か別の方法で君に償ってもらうことを私は考えたかも知れない。しかし、君はまだ子供だ。そこで、私は、君の未来に投資しようと思う」

投資、と言う言葉を聞いて僕は、再び、ぎくりとした。僕の父は、友人と会社を作ろうとして、出資したお金を友人に持ち逃げされたのだ。それから僕たち一家の生活は苦しくなった。父が会社のことで友人と話しているとき、投資と言う言葉を何度も僕は聞いたことがあった。何かとてつもなく怖い話を聞かされそうな予感がした。

「ゲイブ。君は、これから、プロの野球選手を目指すのだ」ジュナイクさんの、その言葉があまりに唐突だったので、僕は、良く意味が分からず、ポカンとしてしまった。

 それが、僕にとって怖い話なのかどうだかすら分からない。

僕はガブリエルと言う守護天使だから、預言者を通じて、神様から啓示を受けたのだ。一瞬、なぜか、そう思った。

しかし、すぐに、その考えは消えて現実に戻った。そして、今度は、こう思った。

この人は、少し、おかしいのではないか?

「君は、将来、プロ野球選手になる。勿論、メジャーの選手だ」ジュナイクさんは、呆れている僕に構わず、続けた。その口調には、気のせいか、預言者じみた響きがあった。

「待ってください!」たまらず、僕は叫んだ。

「僕は、あなたの大切なランを台無しにしたけど、それと、僕がプロ野球選手になるのと、一体、何の関係があるんですか?」

「ああ、すまない。私の悪い癖だ。肝心なことだけを最初に言ってしまう」そう言って、ジュナイクさんは、笑った。反省している風でもない。この人は、いつも、自分の、その癖を他人に押し付けてそれで通っているのだろう。権力を持っている人間特有の癖。今の僕にならそれが分かる。そうした人間をたくさん見てきたから。

「では、前置きから話そう。奇抜な話で、君はさぞ面食らうと思うが」もう十分に面食らっているさ。僕は、胸の中でそう毒突きながら、彼の話に耳を傾けた。

「昨夜、私は夢を見た。不思議な夢だ」確かに、奇抜な話の出だしだった。

「私は、麦畑の中に立っていた。私の腰の辺りまである麦が、地平線の果てまで、まるで緑色の炎が燃えさかるように続いている。空は、一面星が輝く夜空だ。夜なのに、麦畑の緑がこんなにはっきりと見えることに何も矛盾は感じない。夢だからね。たぶん、夢だと私には分かっていたように思う。やがて、実際に、麦畑が緑色の光を放って燃えていることに私は気付いた」ジュナイクさんは、目を閉じて語っている。その姿は、僕には、いささか芝居がかっているように見えた。しかし、一方で、子供の僕に対して、大人の彼がそれほど真剣になっているのが不思議にも思えた。僕は、黙って聞いていることに決めた。

「突然、夜空の星の一つが強く輝き始めた。たちまち見ていられない程眩しくなった。思わず、私は目を閉じた。瞼の裏が真っ赤になっている。しかし、光はすぐに収まったらしく、瞼の裏から明るさが消えた。私は恐る恐る目を開けた。そして、私は見たのだ」そこで、ジュナイクさんは目を開け、一息ついた。すでに、僕は、真剣に話に聞き入っていた。唾をごくりと飲む。

「受胎告知の絵に出てくるような厳かな顔をした天使が私の前に立っていた。いや、正確に言うと、私の前で、宙に浮いていた。天使の顔は、私が見上げる場所にあったのだ。そして、私に言った。『おまえは、明日、大切なものを失う代わりに、かけがえのないものを得るだろう』私は天使に問いかけた。『それは、一体、何ですか?』問いには答えず、天使は、ただ、微笑みながら私の手に野球のボールを手渡した」

 やっぱり、この人は、僕をからかっているんだ!

 僕の心の叫びを読み取ったように、ジュナイクさんは言う。

「君は、私が作り話をしていると思うのかい?それとも、実際に夢は見たものの、寝る前に、『フィールド・オブ・ドリームス』をビデオで観たと思っているかな?」ジュナイクさんが言った映画は、観たことがある。神様のお告げで球場を作った男の話だ。だから、ジュナイクさんの言った意味は分かった。きっと、これが皮肉と言うやつなのだろう。子供相手に、そんな皮肉を言うなんて、大人げないと僕は思った。

ジュナイクさんは、僕の目を見詰めて言った。

「実は、私は、神様を信じていない人間でね」

僕は驚いた。僕の周りで、そんなことを言う人は一人もいないからだ。僕の反応に満足したように、ジュナイクさんは、うなずいた。

「だから、私の夢に天使が現れたのは合点がゆかないし、その夢が神様のお告げだなんて本当は思っていやしないんだ」

「じゃあ、なぜ、そんな話を僕に?」

「神様を試してみたくなったのさ。もし、いれば、の話だけど」ジュナイクさんは、事も無げに恐ろしいことを言った。しかし、僕には、ジュナイクさんの言う、神様を試す、と言う意味が分からない。

「夢の中で、神様が天使を介して私に告げた翌日、私はランを失い、君と出会った。つまり、私は、失ったランの代わりに、君を得たわけだ。しかも、君は、ガブリエルと言う名を持つ少年だ。大天使ガブリエル。神様が私に遣わす者には、何とも、ふさわしい名前じゃないか。もし、神様がおっしゃる通りなら、君は、私にとってかけがえのない者のはずだ。違うかね?」そう言われたところで、僕に答えようがあるはずもない。

「私は考えたんだ。今の私にとって、かけがえのないものとは一体何だろう?と。あのラン以上に大切なものとは?」困惑している僕に構わず、ジュナイクさんは続ける。

「希望だよ。未来への希望。それ以外、今の私にかけがえないものなんて考えられない」僕の想像もしていなかった言葉を、ジュナイクさんは口にした。

「あの…」僕は思わず声を出していた。

「奥さんは?奥さんは、あなたにとって、大切じゃないんですか?」僕の言葉を聞いて、ジュナイクさんは愉快そうに声を上げて笑った。

「勿論、大切さ。彼女は、私にとっては勿体ないくらいだよ。確かに、私は幸せに慣れすぎていたのかも知れない。これまで、仕事は順調だったし、美しく賢い妻を伴侶にすることが出来た。だから、私は罰を受けたのかも知れない。神様、いや、運命から罰を受けたのだ」

「大事にしていたランを僕が壊したことですか?」

「いや、ああ、まあ、そう言うことかな」曖昧な口調だった。この人は、実は不幸なんじゃないか?なぜだか、理由は分からない。僕は、そんな気がした。

僕や僕の友達やその親たちには縁のない不幸、僕たちが知らない特別な不幸が、この世にはあるのだと漠然と思った。

急に押し黙り何か考えに耽っているジュナイクさんの横顔を、窓から差し込んでいる夏の午後の光が、陰りの深いものに見せている。傲慢な大人のような、いたずら好きな子供のような、この人の正体は、今、僕が見ている、人生に倦み疲れた中年男なのかも知れない。事業の失敗の負債を抱えたまま、酒浸りになり、自殺同然に肝臓ガンで死んだ僕の父とそれほどかけ離れた人間ではないのかも知れない。

「つまり、その、君は、私にとって、未来への希望と言うわけだ」ジュナイクさんは、無理矢理、何かのつじつまを合わせるかのように、そう結論付けた。僕にとっては、全く、納得が行かない話だ。しかし、こちらには、ランを台無しにしたという、負い目がある。黙って聞いているしかない。

「さてと、肝心の契約の話に戻ろうか。前置きと言いながら、随分と余計なことを喋ってしまったようだ」ジュナイクさんは、そう言って、ソファの上で一度、背筋を伸ばした。僕も思わず身構える。

「君はメジャーリーグの選手になる。そして、公式試合でホームランを打つんだ。メジャーの選手がスタジアムの大観衆の前で打つホームランだ。その価値は高い。一本につき100ドル以上の価値はあるだろう」やはり、この人は、イカれてる。でなければ、僕をからかっている。彼の話を、いつしか真面目に聞いていた自分が馬鹿だった。僕が、メジャーで、ホームランを打つことが、なぜ、ランを弁償することになるのだろう?第一、僕が、メジャーリーグの選手だなんて!

「あなたの未来の希望と僕が野球選手になること、それに、ランの代金を弁償すること、みんな一体、どう言うつながりがあるんですか?僕には、さっぱり分かりません!」

「簡単なことさ。私は野球が大好きだ。神様が私に遣わした君がプロ野球選手になることは、神様が私に奇跡を見せてくれると言うことだ。そうしたら、私は神を信じられる。神様がおられる限り、人には希望がある。教会ではそう教えないかい?」

「ええ、そうですけど。じゃあ、なぜ、僕のホームランがランの代金に?選手として稼いだお金で払っては駄目なんですか?」

「まあ、それでも、いいんだが。しかし、それでは、面白味に欠ける。テレビの中で、君がホームランを打つたび、あの失ったランが私に奇跡を与えてくれている、私は、そう実感したいんだよ」ジュナイクさんの、頗る身勝手な、そして子供じみた発想に、僕は、ただ呆れるばかりだった。

「理屈は、何となく分かりました。しかし、あなたは、メジャーの選手になるのが、どれほど難しいことか分かっているんですか?」僕は、ジュナイクさんに、語気も荒く言った。

「分かっているさ。さっき言ったように、私は野球が大好きなんだ。子供の頃、父に連れられて、何度もスタジアムに足を運んだよ。忙しかった父との唯一の楽しい思い出だ。目の前で見たプロの選手がどれほど凄かったか、私の脳裏には今も焼き付いている。今は、私が仕事で忙しくなって、スタジアムに出向くことは滅多になくなったがね」

「それほど凄いメジャーの選手に、どうして、僕がなれるんですか?」

「どうして、なれないと断言できる?」そう、僕に問いかける、ジュナイクさんの目は、思いもかけず真剣だった。

「さっき、話したように、僕は喘息治療のために野球を始めただけだし、身体も小さいし、そんな夢のような話が…」気迫に圧されて、僕は、言い訳めいた口調になる。

「プロの野球選手になるのは夢に過ぎないと君は言うんだね。だが、その夢が実現しないと、どうして君は言い切れるんだ?」強い口調で言われて、僕は言葉に詰まった。

「私は、夢を得々と語る人間は嫌いだ。夢を見ようともしない人間より質が悪い。仕事柄、夢を語る人間は嫌と言うほど見ている。私からお金を引き出すための夢を、ね」ジュナイクさんが大きな会社を経営していることは想像していたが、それは、僕の考えているよりもずっと大きな会社のようだった。

「私は、夢を実現しようとする人間だけが好きなのだ。君は神様を信じているんだね?」「はい」

「だったら、私の夢を君も信じてみないか?君は、きっと、私の希望となる運命なのだ。夢の中で私に告げたように、君の守護神ガブリエルが、実際に、今日、君を私に引き合わせたのだから」ジュナイクさんの考えていることが、僕にも、ようやく分かりかけてきた。つまり、ジュナイクさんは、僕を使って、神様を試そうとしているのだった。

僕は、考えてみる。

ジュナイクさんは、お金持ちだから、お金でランの鉢を壊したことを償おうとは思っていないだろう。それとも、お金で償えないものだから、僕に難題をふっかけ困らせ、鬱憤を晴らそうとしているのか。だとしたら、夢は作り話?僕は頭が混乱して何が何だか分からなくなってしまった。そんな僕をジュナイクさんは笑顔で見ている。

「君がプロ野球選手になれなかったら、私は君にランの代金を弁償してもらうことをあきらめる。夢は、ただの夢に過ぎなかったと言う訳だ。しかし、君がプロ野球選手になったら、契約通り、ランを弁償してもらう。ホームラン、一本につき100ドル。総額10000ドル、でどうだろう?君は、100本のホームランを打てばいい計算だ。三年も活躍出来れば返せるんじゃないかな?」ジュナイクさんは、そんな夢物語を、まるで家電製品を月賦で買うときみたいな口調で語った。

一年間に、ホームラン、35本。

せっかく、メジャーの選手になるのなら、それくらいは打ちたいな。打率も三割は打ちたいし。いや、二割八分でもいい。打点の方が、ずっと大事だ。

ジュナイクさんの言葉につられて、僕は、いつしか、頭の中で計算していた。

もし、もしも、僕がそんな選手になれたら…。おじいちゃんは喜んでくれるかな?天国でどんな顔をするだろう?

僕は、所詮、十歳の子供だった。まだまだ、夢を見たかったのだ。それまで、無意識のうちに押さえ込んできた思いが、ジュナイクさんの言葉で、心の表面に、一気に浮かび上がってきたようだった。

そうだ。僕は、何より、野球が好きだし、野球なら誰にも負けない自信がある。

そもそも、この〈オペラ座〉に僕が招かれた?のも、僕がこの屋敷の庭まで、ボールを打ち込んだからだ。その僕が、この屋敷の主人から、預言めいた契約を交わすよう勧められている。もしかしたら、それは神様のお導きではないだろうか。

僕は、神様を信じている。ジュナイクさんは、信じていない。だから、僕が、ジュナイクさんに神様がいることを教えてあげなくちゃいけないんだ。

今考えると、それは、子供らしい思い込みに満ちた短絡的な考えだったが、その時は、素晴らしく理屈が通っているように思えた。

「分かりました。それで、結構です」銀行の貸付係が借り主の担保物件に納得したような口調で、僕は、ジュナイクさんに向かって言った。

「そうか。分かってくれて嬉しいよ。じゃ、これで契約成立だ」ジュナイクさんは、満面の笑みを浮かべて言った。

「条件一 君がメジャーのプロ野球選手を目指すこと。条件二 もし、なれたら、公式戦で、一本につき100ドルのホームランを量産すること。条件三 総額10000ドルのホームランを打ったら、君が壊した私のランの代金を弁済したことになる」

こうして、僕は、10000ドルの弁償金を抱えることになったのだった。それも、摩訶不思議な弁済方法で返すという、条件付きだ。

それが、文字通り、ランの弁償金としてのお金なのか、それとも、ジュナイクさんの夢の価値なのか、あるいは、僕自身の未来の値段なのか、僕には、よく分からなかった。

「おっと、忘れるところだった。もう一つ、大切な条件があるんだ」僕は、もう驚かなかった。この人は、もう十分に僕を驚かせていたからだ。

「これから、月に一度、私宛に手紙を書くこと。どんなことでもいい。最近、君の周りで起こったこと。君が今考えていること。何でもいいから、私に手紙を書いて欲しい」その最後の条件が、なぜだか、僕には、ジュナイクさんにとって一番大切な条件のように感じられた。なぜだかは分からない。子供の直感と言うやつだろうか。

忘れていた、のではなく、言い出すのに勇気がいるから最後に思い出したように言ってみた。僕には、そんな気がしてならなかった。


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