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ミセスの『コロンブス』炎上。じゃあ、どうすればよかったのか?

『コロンブス』MVに対する「教養が足りない」と言う指摘

Mrs. Green Appleの新曲『コロンブス』のMVが炎上してしまいました。

私は問題がある程度話題になってから経緯を知った(そもそも直接MVも見ていません)こと、またそのMVに直接的な被害を受ける立場でもないことから、当事者を批判するつもりはあまりないです。ただ、擁護する立場にあるわけでもありません。MVの内容を間接的に知ると、確かにまずかったんだろうな、という思いはあります。

どんなMVだったか、何がNGだったかは、すでに多くの記事が書かれています。

蒸し返すつもりもないのですが、一方で、「今後、こうならないために私たちはどうあるべきなのか?」は議論が尽くされていないように感じます。MVの成否は「否」だったとした上で、翻って自分達が、同じ間違いを犯さないためにはどうしたらいいか?を考えてみたいと思うのです。

その時に気になったワードは、ミセスを含めMVの発信に関わった当人達に「教養がなかった」という批判です。

なるほど、教養があれば、そのようなMVを作ることも、MVに許可を出すこともなかった。教養。便利な言葉です。

では、そもそも「教養がある」とはどういう状態なのでしょうか?

「知識=教養」ではない

問題の根本は、コロンブスの歴史的評価の変化にあります。アメリカ大陸を発見した偉人と認識されていたコロンブスですが、多くの先住民を虐殺したという事実から、むしろ批判の対象となっている、という変化です。

この変化は特に欧米ではかなり広まっているにも関わらず、それを知らなかった。そして今回のMVはそれを想起させる内容だった。それを知っているだけの教養があれば防げたはず、という論法。これが「当事者達には教養がない」という指摘のようです。

この指摘は、確かに一理あるように思います。しかし、情報に溢れたこの社会で「知っている」「知らない」で議論するのは、少々無理があります。むしろ知識はなくとも、そういった社会の流れを認識した上で、発信に問題があるか「気づけるか」という言葉の方が、現実に即しているように思います。その違和感を持てた場合、知識は後追いでどうとでもなるはずです。

加えて、このコロンブスの歴史的評価の変化を知っていれば、つまり知識があれば、教養があると言えるかというと、おそらくそれも違う。

極端な話、その変化を知っている人が「だから彼らは教養がなくてダメなんだ!!」と声高にネットで悪口だけを叫んでいた場合、それはむしろ「教養のない」人間の態度だろう、ということです。もちろん、自戒も込めて。

つまり私の中で、教養があるということは、世の問題に関する知識を持っているかは本質ではなく、問題に「気づく力」がある、というイメージがあるようです。

「このMVはまずいのでは?」と疑問を呈したりすること自体は、問題ないと思いますが。

知識や認識のアップデートは難しい

そもそも、私は疑問に思うことがあります。コロンブスの評価が変化したこと。これは一体どこで「勉強」したら知ることができるのでしょうか?

正直、私もどこでその知識を得たのかは、自分のことながら疑問です。現代社会の膨大な情報の中から事前にそれを知ることができた自分は、運が良かった、という他ないのかもしれません。

インターネット、さらにはスマートフォン(そしてこれからは生成AIでしょうか)の発達によって、我々は多くの情報に晒されています。その全てを知覚して記憶しておくことなどまず無理でしょう。

加えて、特にSNSなどのツールは基本的に自分が興味のあることだけに辿り着ける仕組みになっています。そのようなツールが一般的になった昨今では、自分が得ている情報が酷く限定的であることを自覚することも大事なのかもしれません。

教養とは「審美眼」を鍛え、アップデートすること

ここまで、教養が鍵になるという前提で話を進めてきました。

何のために教養を身につけるのか、という問いに対して、今回のような問題を起こすリスクを減らすため、という答えは、それなりに説得力を持つように私は思います。とはいえ、そんなネガティブなことをモチベーションにするのは少々気持ちが悪いとも言えます。

私の中にある教養を学ぶ意義の一つは、「審美眼」を鍛え、アップデートすることにある、と思います。これは『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか』という書籍にまとめられている内容でもあります。

単に知識を得るだけでなく、問題の核心に気づく力。それを身につけることが教養を学ぶ意義なのではないでしょうか。

最後に:本当に「教養がある人」とは

ここまでの議論を踏まえると、本当の教養を持つ人とは、おそらく「コロンブスはアメリカ大陸を発見した偉人だよ」という意見が主流だった時に「いやいや、コロンブスはヤバいやつでしょ」と最初に主張できた人、なのではないでしょうか。

物事を正確に把握した上で、大衆の意見に流されず、真に正しいと思えることに気づき、主張できる人。そんな人こそが教養があると言えるのかもしれません。

自分を含めたそれ以外の人は、その最初の人の「気づき」に乗っかっているにすぎないのではないか、ということです(それでも認識をアップデートしようとしてるだけ、マシな方だと思いたい)。

一市民である我々にそこまでの教養が身につけられるか、あるいは必要かは疑問ですが、そういった人間を目指すことは、自らの発信を良質なものにする一つの方法ではないかと思います。

追記

わたしが言いたかったことが大体この本に書いてあるっぽいです。読み進めているところです。

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