また今日が訪れる

小さい頃、今日がまた訪れると思っていた。
西日本の片田舎に生まれて、窓をあければ家の外に見えるのは畑や田んぼばかり。
町から由布岳を見上げれば、山の向こうから大砲の音がズドン、ズドンと聞こえてくる。

その音が鳴り響く度に縁側の窓がガタガタと震える、そっと触ると小さな振動が指先に伝わってくる。面白くて何度も何度も指先で触れた。

今よりも季節の輪郭が整っていた気がする。春になれば山から狸や狐が降りてきて畑に可愛い足跡を残していた。夏になれば盆地の朝は霧が立ちこめて、昼になれば朝の霧が幻みたいに澄み切った日になった。秋だって、冬だって今よりも季節に触れる機会が多かった。

そんな小さい頃、昨日の意味や明日の意味も分からずに、その日は毎日が今日だった。今日という日はその日しかないのに、今日という日は昨日も明日も今日だった。

だから、ビデオで撮影された幼い日の僕はその日がまた訪れるものだと思い込んでいた。そんなことは一生ないのだけど。

僕はビデオを消していった。だから幼い頃の僕が動いている映像はこの世にない。今思えば何故そんなことをしたのかもわからないけれど。

今日という日は今日しかない。
そんなことを改めて感じた昨日の早良口だった。

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