見出し画像

【AIR】「表彰」が本質から乖離せざるを得ない原因

地域でなにか成果が出ると、それがすべて答えだと勘違いして傲慢になってしまうことがしばしば起こります。特に最近は地域での取り組みが色々と注目されることもあり、ちょっしたことであれこれ賞をもらったり、まわりから褒められることも昔より多くなりました。

私も若かりし頃はそういうこともありましたが、やはり長く続けていることと、あとは異分野など含めて経営的に、経済的に世の中を見るようになってそのあたりのインパクトについては大変謙虚になったところがあります。というのもどんな地域事業、革新性があり、未来を先取りしていたとしても、それによって飯を食えているヒトは限られる、あくまで大河の一滴のような成果でしかありません。しかし、大河も一滴から成立しているのも確かでもあります。

二宮尊徳の積小為大の言葉のごとく、小さなことを馬鹿にして大きなものばかりを追い求めれば本質が見えないのですが、かといって小さなことを成し遂げたからといって傲慢になり、大なる成果を謙虚に求めることをしなければ、それもまた単に小さな取り組みで終わります。

その時にどんな自分が偉大なる仕事、貴重なことをやっていたとしても、もう少し俯瞰した上で、自分の取り組みをスケールアップさせること自体を求めていなか、もっと様々にな考え方、取り組みと呼応して大きなうねりを作ることに関心を持つようにならないか、常に問い直していくことが大切になります。

○ 賞とかそんなものは本質ではない

世の中には様々な賞があります。私も高校時代に参加させてもらい、共に推進した早稲田商店会の取り組みは環境、防災、様々な分野で当時からすれば先駆的でした。取り組み自体もインターネットで非同期型のプロジェクトマネジメントを普通にやっていて、官民の参加者全員が兼務で取り組みを推進していたわけです。今でも先駆的だったと思うし、現代的だと思っています。

ここから先は

2,477字
この記事のみ ¥ 500

サポートいただければ、さらに地域での取り組みを加速させ、各地の情報をアップできるようになります! よろしくお願いいたします。