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培養肉から仏教徒の食肉を考える

こんな記事がありました。

【カラパイア】
世界初、細胞培養したフォアグラが研究室で作り出される。しかもうまいらしい(フランス) - カラパイア
https://karapaia.com/archives/52304162.html

細胞を培養して肉を作るのだそうです。

漏斗のような道具で強制的に給餌して、鳥を脂肪肝にして作っていたフォアグラが、こうやって培養肉になることで、鳥の苦しみが無くなるなら良いですね。

培養肉自体に倫理的問題があるかないかと言えば、あると言う人にとってはあるのだろうけど、個人的には鳥の苦しみがないなら、この方法は随分とマシなのではないかなと思います。

そのうち、食肉全てが工場で培養されるようになるのかも知れません。
あるいは、植物の果実のように肉を収穫できるような日がくるのかも知れない。

お坊さんは肉を食べてはならない、肉を食べるお坊さんは破戒僧だと言われることがありますが、実は仏教の開祖であるお釈迦様も肉を食べていました。

布施された食べ物は全てありがたくいただくものですから、托鉢に入れられた食べ物の中には当然肉もあったのです。

お釈迦様がご入滅されたキッカケは、豚肉による食中毒という説があります。お釈迦がお肉を食べておられたのは間違いなさそうです。

今でも、信条として、あるいは戒律として肉を食べないお坊さんはいますし、それはそれで凄いことだなと思います。

私の友人の浄土宗の尼僧さんは、戒律で定められたからではなく、自主的に剃髪し、自主的に肉食をやめられています。出汁など避けられないものについては今のところオッケーにしているなど、考えながらしておられて、すごい方だなと尊敬しています。

浄土真宗は肉食妻帯と言って、肉も食べるし結婚もしますが、親鸞聖人の祥月命日はお精進で過ごすというご家庭もあります。命への感謝を忘れない習慣としてされているのでしょうし、素晴らしいことだなと思います。

親鸞聖人もお肉は食べておられたと思います。というのも、肉食ということについて考えておられた文章が残っているからです。

浄肉文といわれるご文です。

『涅槃経』言、「人・蛇・象・馬・師子・狗・猪・狐・獼猴・驢」十種不浄肉食 又言、「三種浄肉。」見・聞・疑。見というは、わがめのまへにて殺す肉を食するなり。聞といふは、わがれうにとりたるを食するをいふ。疑といふは、わがれうかとうたがいながら肉食するをいふなり。この三つの肉食を不浄といふ。この三つのようをはなれたるを、三種のきよき肉食といふなり。 

食べてはならない種類の肉が述べられたあと、食べても良い種類の肉についても、

殺すところを見た肉(自分のために殺したもの」、自分のために殺したと聞いた肉、自分のために殺したのではないかと疑われる肉、は食べてはならない、ということです。

このルールを現代人にそのまま当てはめるべきかどうかはわかりません。そもそも、最初に羅列された肉の種類が、現代人から見ると不思議な感じがします。

しかし、親鸞聖人は「肉を食べるのは当たり前だから別に何も考えなくても良いんだ」とは考えておられず、肉を食べることについて色々と考えておられたのだろうという事実が大切なのではないかな、と思います。

私は師匠に「坊主が釣りするな」と教えられました。「釣ったものを食べてもだめですか?」と聞くと、「いかん」と言われました。

その言葉については今も色々と考えています。ちゃんと釣りを仕事としてくれている人が居て、その人たちは真剣に命に向き合いながら生業としてしてくれているのだから、僧侶という、社会の中で命に対して特殊な役割をいただいた立場のものが、ほんの少しでもレジャーの心を持ってその領域に踏み込み生半可な気持ちで殺生をするべきではない、という意味として今は受け取っています。

最初の記事のような培養肉について、仏教的な問題を考えるとすれば、命のスタートはどこからなのか?という問題でしょう。私が仏教学を習った先生が仰るには、受精卵になったときがスタート地点ということでした。そこまで考えた場合、議論の余地があるのかも知れません。

しかし、私個人としては、鳥に感覚として、感情としての苦しみが生まれない、というのは大きな進歩で、歓迎されるべき技術ではないかなあと思います。

苦しみが生まれないということでこの技術には賛成、しかし培養肉だからといって生命なのだから感謝は忘れるべきではない、というのが、今のところ私が思うことです。


おあずかりさせていただきましたご懇志は、必ず仏法相続のために使わせていただきます。合掌