【無料】仏教入門ノート01 宗教ってなに?① 宗教の意味
「仏教とは〜」という話の前に、まずは「そもそも宗教って何やねん?」という話からはじめたいと思います。
(1)宗教は「むね」の教え
手始めに、宗教の「宗」の字を見てみましょう。
「宗」という字は「むね」とも読みますよね。「むね」と読む漢字としては、他にも、胸・旨・棟などがあります。
たとえば、「胸」は体の中心であり、心臓がある大事な部分です。
「旨」の場合は、話の旨などと使いますが、これも話の中心、話の肝要のことです。
「棟」もまた家の中心の大事な部分で、棟上げ式の日は特別な日ですし、棟が違えば家が違うのです。
どうやら、日本語で「むね」という音であらわす言葉は、中心的で大事なもののようです。
宗教とは「むね」の教えと書きます。
この「宗(むね)」は何の中心なのかと言えば、人生そのものの中心です。
その人が生きる中心となる教え、人生そのものへの価値観、人生観を定めているのが宗教というものです。
人生の中心となる、とはつまり、
「何のために生まれ、何のために生きているのか」
「人生の意味はなにか?」
「死んだらどうなるのか?」
という「存在の問題」について教えている、ということです。
そのような教えが宗教であると言えるでしょう。
(2)無宗教者の宗教観 「死んだら終い教」
では、現代人に多いという「無宗教の人たち」はそれらの問題について答えを持っていないのか?
「むね」となる教えがないのか?
と言えば、実は「そうでもないんじゃないかなあ」と私は思っています。
その証拠に、無宗教の人に「あなたは死んだらどうなるんですか?」と聞けば、ちゃんと明確に「死んだら終わり」「灰になる」「スイッチが切れたみたいに暗闇になる」などと答えてくれます。それも立派な宗教観なのではないかな、と思うのです。
無宗教という人は、いわば「死んだら終い教」の信者なのだろうと思います。
「死んだら終い教」には、その生きる目的についていくつかの流派があります。
「死んだら終い教 お金が全て派」とか
「死んだら終い教 愛が全て派」とか
「死んだら終い教 快楽が全て派」とか、他にもたくさんあります。
なにせ、死んだら終いなので、生きている間に何を目的として生きるかが大問題になり、そこには人それぞれの価値観があるわけです。
そして、「死んだら終いなんだ‼」と強く思える人ほど、この社会では成功をおさめたりするようです。
資本主義全盛の世の中、勝者と呼ばれる人は大抵「死んだら終い教 お金が全て派」の篤い信者でしょう。
「じゃあ、それで良いじゃん?」
と思うかもしれません。
はい、私も良いと思います。
信教の自由は認められるべきですしね。
しかし、この「死んだら終い教」には重大な弱点があるんじゃないかな~とも思うのです。
その弱点とは、まさに死ぬときには何一つ支えにならず、ただ虚しさの中で死んでいかないといけない、というところです。また、愛する人が死んだときなどは、愛が深いほどに残された人は深く傷つき、虚しさの中で苦しまねばなりません。
なんせ、死んだら終いなのですから…
自分も終い、愛する人も終い。
全てが無に帰すのです。
何のよりどころもなく最後をむかえていかなければならないというのは、何とも寂しいことです。
ですから、この「死んだら終い教」の人は、人生のどこかで改宗する人が多いようです。
家族が亡くなった時、人生の虚しさに気付いた時、人それぞれですが、どこかの地点で、
「あれ?これって、将来的に結構キツイのでは?
ってか、もうまあまあキツイぞ…」
と気付くのです。
そこで、なんとなくイメージしてみた天国、なんとなくイメージしてみた極楽、なんとなく死者はそばに居る説、などの仮定や仮説を持ち出し、
「死んだらこうなる」「死んだらそこに行く」などと考えてみる人が多いのです。
でも実は「考える」のと「信じる」のは大違いなので、それだけでは大抵の人はなかなか上手くいきません。
考えるのは簡単ですが、信じるというのは実は至難の業です。
多くの人は、信じているフリをして、変わらずに不安なまま生きて、よりどころなく死んでいかなければならないのです。死んだら終い、という思いを握りしめながら。
(3)信仰は本能的で自然な営み
でも、実は多くの人がこういう思いを持っている状態というのは、人類の歴史の中ではかなりの異常事態なのです。
世界中どこに行っても、人間が居るところには必ず歴史のある宗教がありました。人々はその宗教の世界観の中で生きることで、自然と人生の落とし所を教えられ、その世界観を体得して暮らしていたのです。
生まれ変わってまた生きなおす、浄土に生まれる、復活の日を待つ、神の国に行く、ニライカナイに行く、などなど、そうやって人生の落とし所を持って、その落とし所に向かって日々を意味付けながら生きてきたのが我々人類です。
死後や人生の意味を考える力を持って生まれてしまった人間という種にとって、宗教を持ち、その宗教観の中で生きて死ぬというのは自然なことなのです。
信仰を持つことは人間にとって、歌うことや絵を描くことと同程度には本能的で自然なことです。そして必要不可欠なことです。まさに宗教は、「むね」の教えなのです。
少し長くなってしまいましたが、次回もまだ「宗教」についてお話します。
仏教が出てくるのは、その少し後になりそうです。
仏教入門としてこれから色々と書いていきますが、スタート地点は「既存の教えを知識として学ぶ」ことではなく、「今の自分の存在に疑問を持ち、そこから考えていく」ことであってほしいと思っています。
もしよろしければ、また読みにきてくださいね。
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