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パリ ポンピドゥーセンター キュビスム展―美の革命(国立西洋美術館&京セラ美術館)

山田五郎さん曰く、画家のかかるはしかみたいなもの、というキュビスム。猫も杓子も描いていた時期があった。実験実験また実験に明け暮れた20世紀。

あのフジタさんも!(画像はないけど)

でもいまキュビスムで描く画家は絶滅していると思う(いやいるのかも?)。果たしてあのカクカクした画風はいったい何だったのか?

注)例によってこの企画展も巡回先を追っかけて(東京と京都で)二度見た。不思議なことに東京展で撮影不可だったものが京都では可能になっていた。SNS投稿についても特に禁止事項はなかった。ちょっとゴチャゴチャな鑑賞記になるのはご容赦願いたい。


私もキュビズムはそんなに好みではない。でもただの絵の具の染みやペンキぶちまけたみたいな抽象絵画に比べりゃまだいいわい。考えていることがまだ追いやすい。

セザンヌとルソー

出迎えで置かれるのは近代絵画の父、そしてキュビズムの父とされるセザンヌ。あの意味不明な神話的裸婦や独得の歪んだ静物画がそれぞれ飾られる。…どっちもヘタだな。

ポール・セザンヌ 《4人の水浴の女たち》1877-78年
ポール・セザンヌ 《ラム酒の瓶のある静物》1890年

ちなみにこれらは共にポーラ美術館所蔵品で撮影禁止(東京展)。ポーラ美術館は大概の作品撮影可能なのになんで他所に行くとダメなんだ? 写真撮りたきゃうちに来いってこと?かと思ったらなんで京都ではOKなのか…。これもキュビスム(だけじゃない)の謎のひとつである。

セザンヌの静物画は画期的な多視点の手法を生み出したったって、つまりはうまく遠近法使えなかったからじゃないのか? ちょうどアンリ・ルソーのように…と思ったらお隣にそのルソー作品が。

アンリ・ルソー  《第22回アンデパンダン展に参加するよう芸術家達を導く自由の女神》1905-06年

これは日本の国立近代美術館所蔵品だね。こ れは京都会場にあったもの。

東京回では同じルソーの「熱帯風景、オレンジの森の猿たち」(1910年頃)が置かれていた(撮影NG)。これはその昔世田谷で見たっけ。もう18年前かい。

オレンジ色のエナジーボールの明るさは相変わらずだった。で、これ個人蔵なんだ。日本人?

しかし巡回先でこういう展示の変更するんだね。ルソーならなんでもいいだろ?ほれ! みたいなノリ? いやそれむしろ贅沢すぎないか?

🐒🍊🐒🍊🐒🍊

ピカソ

そんなこんなで前座(??)が終わり本格的なキュビズム作品が始まる。やっぱり見ものはピカソかな。

パブロ・ピカソ 《裸婦》1909年

山と一体化した、ロックイーターのような、トランスフォーマーの変身途中みたいな裸婦。これもポーラか。

あの時(ポーラのピカソ展)にもあったのかな。

そして…

パブロ・ピカソ 《女性の胸像》 1907年

言わずと知れた〝アヴィニョン〟の習作のひとつ。「アヴィニョンの娘たち」の絵画史的重要性はわかるのだが未だになにがそんなすごいのかピンとこない。しかしこの絵はかっこいい(ピンときた感想)。

雑に描いてあるように見えるけど顔のお肌には慎重に選ばれたであろういろんな色が使われてるのね。首のあたりは青の時代の名残も。

これ(いや、アヴィニョンの完成品かも)を見たブラックは

西洋の伝統的な「美」の常識をまるで無視した

ことに衝撃を受けたという。醜い顔を敢えて描くような事は昔もあったはすだが、アフリカンな風貌はなかったんだろう。今見るとエスニックでかっこいい。

セザンヌやルソーはヘタクソだから「オリジナリティ」に逃げたが(ひどい言いよう)ピカソ先生は空前絶後のデッサン能力をお持ちの方だ。そうした達人が敢えてヘタウマを取り入れる覚悟と凄み。その上でこのかっこよさ。

パブロ・ピカソ 《女性の仮面》 1908年

ところがこれはふつうに変な顔だなw。やはりよくわからん。

アフリカンアート

参考出品でアフリカとかの土着の仮面やらも展示される。

特級(?)呪物らしい?

大阪の民博でいっぱい見れるやつね。どれも存在感がすごい。

大航海時代、世界中の文化がヨーロッパに流入してきた。ジャポニスムもそのひとつ。しかしヨーロッパとアフリカは地続きなのだ。こうした文化にそれまで触れてこなかったのだろうか? アラビアンナイトみたいなのはひろまっていたのに。まあ中東はアフリカよりは近いけど。

モディリアーニ

とにかくそういうのに影響を受けてモディリアーニは彫像を作る。彼の2次元絵画肖像の目が空洞っぽいのは彫刻の雰囲気を残す意図によるという見方もある。ほんとのところはどうだろうか。

アメディオ・モディリアーニ 《女性の頭部》 1912年
アメディオ・モディリアーニ 《赤い頭部》 1915年

こりゃ習作かなと思ったが、ちゃんと署名まであるから完成品なのかな。

ローランサン、シャガール、またピカソ

パリに集まる当時最先端のゲージツ家たち。時代のうねりが起きる。トキワ荘に集まったマンガ家たちのように。

マリー・ローランサン 《アポリネールとその友人たち(第2バージョン)》1909年

ちょっと画風にアンリ・ルソー入ってるよね。この絵にはいないけど。

ローランサンサンについてはここで見てきてまたイメージも変わったっけ。

マルク・シャガールも現れる。シャガールもキュビズムかぶれ患者のひとりなのかね? そのイメージはなかったが一時の気の迷い?やっぱはしか?

マルク・シャガール 《墓地》 1917年

これは確かにかなりキュビスムしてる。このあと彼ははしかを克服して独自の画風になったのかなと思ったら、下の典型的なシャガールっぽい絵はこの絵の前の制作だな。

マルク・シャガール 《ロシアとロバとその他のものに》 1911年

赤い牛にクビちょんぱ。多視点よりなにより夢と現実、過去と現在と未来のマルチユニバースだぜ。

マルク・シャガール 《婚礼》 1911年

不思議な世界。黒い人たちは悪魔かな。

マルク・シャガール 《白い襟のベラ》 1917年

グリーンジャイアントがこびとになっちまったよ〜。ベラは奥さん?(Wikiに日本語表記はないんだ)

これはキュビスムした「墓地」と同年の作。デフォルメはあるけどまだ現実的な絵だね。

で、展示後半でまたピカソが数点置かれる。

パブロ・ピカソ 《若い女性の肖像》1914年7-8月

この頃のキュビスム作品はロココ的キュビスムと呼ばれるらしい。緑を基調にしていたそうなので「緑の時代」でもいいのに。こんな水玉模様入れたピカソ作品なんて初めて見たかも。

パブロ・ピカソ 《輪を持つ少女》1919年 春

(どうでもいいが「1919年 春」とか制作年に季節を付けているのはあまり見たことないな)

このころのピカソはもうキュビスムを消化吸収したのか、作品の中でひとつのアクセントみたいに部分的にキュビスム技法を取り入れるようになっている。更にその後の新古典主義時代はもうはっきり古典的な単視点だが、私の目にはそれらがいまにも多視点にくずれていくのではという錯覚や妄想を引き起こしそれが楽しい。こんな見方するの私だけだろうか。

変な映画二作

「キュビスムの画家リガダン」1912年

キュビスムファッション? ケージツかぶれの男が最先端のファッションで「おれイケてね?」みたいなコメディみたい。やっぱりキュビスムは(素っ頓狂な)ファッションだったのかな。

最後のコーナーの映画。東京ではたぶん撮影禁止じゃなかったかな。これも京都ではOKみたいなので、ちょっと紹介すると

「バレエ・メカニック」(1923-1924年)

そっか、これレジェだったんだ。帰ってきてキャプションを見返して気が付いた。そういえばチャプリン風のアニメはレジェの絵だね。意味不明なところがルイス・ブニュエルを思わせる作風だった。「アンダルシアの犬」のパクリ?と思ったらあれは1928年制作でこの後の作品なのか。あっちはシュールレアリスムなんだよね。シュール派はキュビスム一派と仁義なき戦いとかあったんだろうか? どっちが真のゲージツだ?!とか。ピカソは両方に属していたようだが。

🍢🍢🍢

もはや誰もあからさまにその手法を取ることはないがキュビスムの精神はまだ生きている。多元視点は見る方向だけでなく時間や深層心理、あるいは絵に描かれていないことまで含めて、絵画芸術は現実の模写ではなく自分の精神世界を映してもいいんだよと気付いたのだから。でもその辺はシュールレアリスムと被るな。

私なりに区別を付ければ、オートマティスムといいながら思い入れたっぷりのシュールレアリスムvs.描く対象も鑑賞者も思いっきり突き放すキュビスム。シュールレアリスムが論理的な説明を一切無視(ミシンとコウモリ傘みたいな)するのに対してキュビスムは論理的整合性を持たせている。見る角度をあちこち変えて統合しているだけであくまで現実の世界を描いている。あたりがいちばん大きな違いだろうか。

現代美術の胡散臭さについては各方面から指摘がある。ピカソなんてさっぱりわからん〜、という感覚は至極真っ当だと私も思う。

脱線話

突然だが、この本を読んでいたらおもしろい事が書いてあった。イタリアの物理学者の書いた量子力学の本で絵画なんかにゃまったく関係がないはずなのに、量子論の界隈ではキュビスムをもじった「QBイズム」という言葉があると紹介される(この著者の造語ではないと思うのだけど)
Quantum Bayesianism=量子ベイズ主義 でQBイズムね

ちなみに、《QBイズム》という名前は「量子ベイズ主義(Quantum-Bayesianism)(ベイズは十八世紀の長老派の牧師で、確率について研究した)」に由来するのだが、この言葉には、ブラックやピカソのキュビズム〔立体派〕に通じる響きがある。キュビズムとは、量子論が実ろうとしていた頃にヨーロッパで起きた有力な絵画様式である。量子論とキュビズムはいずれも、姿形をありのままに写し取ればこの世界を表現できる、という考え方から遠ざかっていった。二十世紀の最初の数十年間にヨーロッパの文化全体が、この世界を単純で完全な形で表すことはできない、と考えるようになっていったのだ。

『世界は「関係」でできている  美しくも過激な量子論』カルロ・ロヴェッリ

探したら他にもこんな本があるし(もちろん読んじゃいませんよ)

量子論的なリアル。みなさんよくご存知の、でもほんとの理解は出来ていない「シュレーディンガーの猫」。観測しないとわからない多層世界(なんて理解でいいのか?) それはキュビスムが描く対象の見えない部分まで引っ張り出す方法論と似ている(のか?)。

芸術と科学技術は全然畑違いのようでいて、科学技術の革新が芸術においても新しい表現方法を生み出すことは歴史を見れば明らかであると以前から思っていた。しかしまさか量子論とキュビスムがお互い関連していた(ほんとに?)とは思わなんだ。

そしたらピカソらがアフリカの芸術に刮目したのはレヴィ・ストロースの構造主義あたりがヒントになっているのかな(西洋とアフリカに共通する美の「構造」を見つけた!とか?)、と思ったら『悲しき熱帯』は1955年が初版だ。逆なのか…? こりゃもう私の手に余るよ。誰か研究してたりするのかな。

国立西洋美術館

おまけ(京セラ美術館 トイレの謎)

下の二枚の写真に違和感を覚えないだろうか。

これ京セラ美術館会場内のトイレで、二枚の写真の場所は別々なのだ。ぐるぐる会場を回っていて「あれ? ここさっき来たよな?」と迷路に迷ったような錯覚にとらわれる。更にいうと、上と下の写真の場所で男女が左右入れ替わっているのだ(更に「女子」と「婦人」となってるな。なんか違うのか?)。ますます混乱した。間違えて入りそうだよ。これも多層視点のキュビスムの罠だったのか…?

「悲しき熱帯」と聞くとどうしてもこの曲を思い浮かべる🏝️

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