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中動態の世界、北海道。


光明寺のテンプルモーニングを、月に2回ほどのペースで、もうかれこれ、4年近く続けてきたことになる。でも案外、始めたばかりの初回から、まったく形態は変わっていない。7:30〜8:30、最初の15分はお経、その後に20分ほど掃除、そして残りの時間はお坊さんとおしゃべり。普通、何か新しいことをやるときは、試行錯誤しながら改善を重ねてクオリティや満足度を高めていくものだが、テンプルモーニングに関しては、一切それをしていない。

なぜかといえば、テンプルモーニングのコンセプトが、「お寺の朝のルーティンを、みんなに呼びかけるだけ」というものだからだろう。コンセプトなど、存在しないに等しい。「お寺の朝は、ただ、こういうものですから」という感じで、できるだけ意図とか目的とかから離れるようにしている。「こういうものだから、こうなんです」という世界には、改善も発生しない。ただ、そうだから、そうであり、そこにどんな意味を見出しても良いし、意味など考えずに参加することも許されている。

ただ、読経する。ただ、掃除する。ただ、おしゃべりする。ただ、坐る。ただ、念仏する。それでいいんだと思う。

そんな話をテンプルモーニングのおしゃべり時間にしていた時、ふと、我が故郷、北海道弁の「〜さる」を思い出した。北海道弁には、標準語にはない不思議な活用が存在する。


例えば、仲のいい2人の男子高校生がじゃれあいながらエレベーターに乗っていて、目的の階ではない階でエレベーターが開いたとする。「あれ、ここの階、違うよな? なんでドアが開いたんだ?」「さっき、じゃれあってたとき、ボタン押ささったんでねーか」みたいな使い方をする。あるいは、何かの申し込み用紙に必要事項を書いているときに、名前と住所の記入欄を間違えて書いてしまったとする。「お前、それ、記入欄が反対だぞ」「あ、ほんとだ。なんか、書かさったんだもん、しょーがねーべ」と言ったりする。ニュアンス、伝わるだろうか。

もちろん、ボタンは勝手に自分で動くわけじゃないし、文字も勝手に記入されるはずはなく、自分でやったことであるのは間違い無いのだけれど、でも、そうしようとしたのでもなく、(勝手に、自然に)しささることって、誰にもでもあると思う。かつて日本が電化される前、夜になるとどこも暗くて、今よりもっとたくさんの不思議な現象が日常的に体感されていた時代、人々はそれを妖怪の仕業にして、名前をつけた。


この「〜さる」という北海道弁も、その発想に近いかもしれない。


「水曜どうでしょう」という、北海道ローカル発ながら全国にファンを持つ人気コンテンツがある。北海道人の大泉洋(今となっては全国区の大物になってしまったけれど)が、北海道人のノリで、ただ、旅をしている様子をダラダラと流す番組だ。大泉洋も、どこか、積極的・主体的に「旅をする」というよりも、なんだかわからないけれど「旅しささる」感があり、旅先で出会う人や出来事との関わり方も、全体的に「〜さる」感覚が通底しているように感じる。いや、感じさる。

國分功一郎先生によれば、実は言葉には能動態と受動態だけでなく、中動態があるという。この北海道弁の「〜さる」は、中動態に近いのではないか。そのことは、國分先生自身も指摘している。


▼『中動態の世界 意志と責任の考古学』(國分功一郎著、医学書院)


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