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弁証法

ヘーゲルという哲学者がいる。「弁証法」を探求したことで有名だ。


Aに対してBが生まれ、両者の綱引きする地平において対立が生まれるが、それがアウフヘーベンされて別の地平が開かれる。私たち人間はそのようにして、変化の上に変化を重ねてきた。ざっくり言えばそんなような話だ。

関係あるようなないような話だが、僕が大学生の頃、目黒川を歩いていたとき、ちょっとした超越体験をした。10分で消えてしまうような儚いものだったけれど、そのときちょうど読んでいたのが、ヘーゲルの『精神現象学』だった。おまじないみたいなものかもしれないが、まさに「新たな地平が開かれた」瞬間をヘーゲルがガイドしてくれたという実感もあり、それ以来、時々ヘーゲルを読み返す。

「分断の時代」と言われる。

輪郭を形成しながらこの世に存在している僕らの誰もが、皮膚で覆われた肉体をもって生きている。「自分のことを指差してみて」と言われたら、ほとんどの人が、その皮膚の内側のどこかを指差すだろう。でも、「その指は最終的に、どこを指しているのか」と問われると、僕らは答えに窮してしまう。皮膚も、その内側も、それを指差す指だって、常に更新されている。「自分」は、実は分けようのない存在であるのだと、気付かされる。

人間同士の繋がりもそうだ。友人、家族、村、民族、思想の集い・・・そうしたあらゆるコミュニティもまた、輪郭を描きながら更新を繰り返し、各々がつながり合っている。

ここに描かれる「分別」の線を、僕らは普通「分断」とは呼ばない。無数に多元に「分別」しながら、次元を超えてそれらが網のように関わり合っているのがこの世だろう。

右派と左派。保守とリベラル。貧富の格差。宗教対立。ワクチンを巡る意見の相違ーー。今、世界は、二元論で分断された構造にあるかのように語られるシーンがあまりに多い。けれど、僕らは常にそのどちらかに属しているのだろうか。多くの場合において、「どちらでもない」と答えるしかない自分が既にいる。世界はそんなに単純なものではない。

資本主義の限界、民主主義の形骸化、国民国家体制の行き詰まり、近づく生態系の限界突破へのタイムリミット。そして、ウィルスの蔓延。次々と焦点が当てられる課題には、常に論争や競争といった争いごとが付きまとい、「どちらが」「誰が」という主体をもって語られる。けれど、そこにある「主体」とはいったい何だろう。「どこからどこが、何であるのかわからなくなる」のはなぜだろう。そもそも争いを起こしている固定された主体など、本来的に存在しないからではないか。

社会のあらゆる分野で、分断が加速している。そう語られるがまま、僕らがその道を進むのならば、テクノロジーの進化と共に、この世は新たな課題をもたらし続けるだろう。

巻き起こるさまざまな事象を前にして、本当に目を向けるべき先はどこだろう。interbeing(関係性のうえに立ちあらわれる)な存在として、一人一人が、自らを創造して生きていくということではないか。

2500年前にブッダによって明らかにされた普遍のダルマに照らして見れば、世界は本来、分けようがない。これは「無分別知」と呼ばれるが、輪郭をもち、言語を扱う僕ら自身、無分別知そのものには到底なれない。なれないし、なろうと目指すものでもないのだろう。分別をもって存在しうる僕らを、無分別智は丸ごと受け入れている。ダルマはそのようなものであり、それを自然の理とも、宇宙のデザインとも、大いなる神とも、その人が呼びたいように呼べばいいと思う。

分別しながら生きる僕らが、語り合う。それぞれの異なる「有情」を活かし合う。この10年、「未来の住職塾」を開いてきたのは、そういう場づくりだったのかもしれない、とも思う。異なる宗派をまとめるために「マネジメント」という横串を刺したわけではなく、そこで行われていたのは、どこからかやってきた見知らぬ異質な者同士、語り合ったり、食事をしたり、旅をしながら言葉を交わす。そんな、バラバラがバラバラのまま、時空間を共にするような、そんな体験だったと思う。異なるままに、それぞれに備わる役割が、関係性の中で活かされていく。そこから、どれだけの連携や創造が後に生まれただろう。

分別と共に活きる僕らは、つい、綱引きをしがちだ。(翻訳をした『グッド・アンセスター』でも長期思考と短期思考はわかりやすい綱引きで語られていた。)けれど、綱引きをしている限り、二元論に縛られている。綱を手放してみることからはじめてみたい。離した瞬間はひっくり返るかもしれないが、その先に、どんなことが起こるだろうか。

ひじり系僧侶を続けているのも、お寺ベースの「住職」という在り方以外の僧侶の地平を開くための、弁証法的な立ち位置とも言える。法衣ではなく作務衣を好んで着るのも、綱引きの象徴だ。しかし、これは、対立を望んでのことではない。一瞬、対立的な構図が生まれたとしても、両者が綱引きを重ねる中で、アウフヘーベンを経て別の地平が開かれる。そのようにして変化は起こり続けてきたのだし、それが語り継がれた物語が歴史になってきたんだろう。

そんなことを、最近思う。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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