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自分の声を聴く

宗教の社会貢献に関していつも積極的に発信されている、大阪大学の稲葉圭信先生のnoteで、文化庁が「宗教法人の社会貢献活動」に関する考え方を、公益財団法人日本宗教連盟および都道府県宗教法人事務担当課宛てに発出したことを知った。

稲葉先生がまとめてくださった以下のポイントは、今後の日本の宗教法人の活動を考える上で、押さえておきたいところ。

「公益事業として行われている社会貢献活動も各宗教法人の判断に基づき宗教活動と整理することが可能と考えられる。」
「社会貢献活動が宗教活動に該当するか否かについては、教義または教義を具体化した文書等(教憲等)に基づき、各宗教法人の判断によるものとされることから、各宗教法人におかれては、根拠等を確認しておくことが望まれる。」
「社会貢献活動を宗教活動と整理するにあたっては、地域社会の宗教活動へのニーズをはじめとした社会通念を踏まえることが重要と考えられる。」

宗教法人に関係ない人が読んでもピンと来ないかもしれないが、今まではたとえばお寺の本堂をコンサートの会場として貸し出して、そのお返しにお寺がお布施を受け取ると、その額が微々たるものであったとしても、それがあとあとで「文化振興は本来の宗教活動ではない=課税する」となる一抹の可能性が常にあった。受け取ったお布施そのものに課税される金額は小さかったとしても、「本堂は収益活動に供されている」と認定されてそこに固定資産税が課せられることが大きい(特に都市部)。

稲葉先生が指摘されるように、今回の「考え方」が表明された大きな流れとして、頻発する災害に対する避難・対応拠点としての宗教法人の存在意義が注目されていることがある。2021年は、今後、宗教法人が大々的にNPO化していく最初の年として、後年記憶されるに違いない。

さて、宗教の社会貢献といえば、今僕が注力しているのは、企業に対する僧侶派遣プロジェクト、monk managerだ。どんなことをやっているかは、前回のnoteに書いた通り。今月のスケジュールに「monk manager」が40個なだれ込んできて、noteを書くペースを保つのにも苦労しているけれど、気づきが大きいので良しとしよう。今回のプロジェクトはデータサイエンスの視点も入って音声データから感情分析を行っている。まだ取り組みを始めて間もないが、これまでのところの感触から得た気づきをメモとしてシェアしたい。

結論から言うと、人が生き生きとやりがいを持って良い仕事をするために大事にすべきことは、

「自分の声を聴く」

これに尽きる。

組織というのは沼のようなもので、入社した時のカラフルな気持ちが、忙しさの中で文字通り心を亡くし、役職や肩書きを得て立場で発言するようになって、世界がだんだんと灰色に覆い尽くされていく。正気を忘れ、心がどんどん拗ねていく。世界に素手で触れられる感覚を失って「どうせ」が口癖となっていく。正気を失った人が一定数を超えた組織は、全体が灰色に染まり、集団的な狂気を加速させていく。そんなダークサイドに堕ちないためには、日頃から正気な仲間と交わり、正気を保つ習慣を持つことが大切だということを、monk managerを通じて痛いほど感じている。

正気を失った人は、zoomを通してもわかる。声に現れる。特に、集団的に正気を失った組織に身を置く人は、感情変化の幅が小さくなる傾向がありそうだ。興味深いことに、感情が「怒り」の色に染まるとは限らない。話している内容は暗く悲痛に満ちているのに、感情は終始「落ち着き」に張り付いている管理職の人もいる。正気を失う場所にいる人の言葉には、自分のことを語る分量がぐっと減り、他者や組織の話、まったく脈絡のない話が増える。自分の身を守るためだろうか、一種のネグレクトのような状態が見て取れる。

ざっくりと「正気の社員」と「拗ね社員」に分けるなら、拗ね社員は恐れと悲しみの感情の割合が大きい。人は傷ついた経験を重ねると、これ以上傷つきたくない「恐れ」から、自分の身を守るため、本当には思っていないことを話したり、本当に思っていることを話せなくなったり、するものだ。自分の心の声と、口にする言葉の間に広がる距離が、そのまま「悲しみ」の感情の大きさとして現れるようにも見える。

なお、これは必ずしも職階には関係ない。拗ねた部長もいれば、正気な平社員もいるし、逆もまた然り。一つ言えるのは、正気は自分では保てない、他者との関係の中で保つものであるという通り、集団において相互作用するものだということ。拗ねはクラスター的に広がる。

「大人になれば、そうもいかない」というのは、拗ねた人がよく使う言葉だ。もちろん、僕も組織や立場とまったく無縁な人生を送ってきたわけではないから、それはよくわかる。よくわかるけれど、でもそこでもう一踏ん張りして「大人になれば、そうもいかないというのは、なぜだろうか。いったいそれを、誰が言っているのか」と、問い直してみたい。「どうせ」のつぶやきに、心を簡単に明け渡してはいけない。明け渡してしまうと、明け渡しグセがつく。気がつけばクセはどんどん強化され、そのうち人は自分の声を忘れてしまう。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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