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人間中心主義と仏教

街中でふっと、現実世界に違和感を感じることがある。

なぜ自分がいる世界は、今目の前に見えている、「この」世界なんだろうか。すっかり慣れ親しんでしまっているけれど、「これ」を見せられているだけではないだろうか。
とか。

子供の頃、熱が出ると、必ず見る夢があった。

無限に広がる真っ白な空間に、小さな小さな黒い点が現れたと思ったら、それが物凄いスピードで圧倒的な大きさに拡大して、白かった空間をあっという間に真っ黒に塗りつぶす。どういう理屈かはわからないけれど、その塗りつぶしと共に自分の存在も消えてしまうことを知っているから、その映像を定点から眺めながら、強烈な死の恐怖を味わう。でも、あっという間に塗りつぶしが完了して全てが「ピーン」と収まった時には、映像が白なのか黒なのかももはや認識できないけれど、あら不思議、死んだはずの自分は、何の問題もなく、ここにいる。そうこうしているうちに、まもなく、今度は定点を離れて、自分自身が色のある筒の中を高速で移動し始める。定点を離れたと言ったけれど、定点を離れたと言ったけれど、あるいは、その時僕が体験していたのが、白黒世界は二次元で、色のある世界は三次元であったから、そのように感じられるだけかもしれない。とにかく、物凄いスピードで壁にぶつかりそうになりながら筒を通り抜けていくシーンがしばらく続く。筒を抜けたら、また白黒。その繰り返しだ。恐怖とワクワクの感情が激しく揺れ、しかし、全編を通じて、根本的には「大丈夫」とどこか安心もしている。目覚めた時にはどっと疲れている。

そんな夢から覚めた直後は、熱のせいもあるのだろうか、この現実世界の「現実」がわからなくなることがあった。なぜ、水道のひねると、水は上から下に流れるのか。逆に流れる世界だってあるんじゃないか、とか。

これを「悪夢」と呼ぶべきかは、わからない。あまりにも何度も同じ夢をみるので、自分にとってはそれは既知の慣れ親しんだ映像となっていて、大人になってその夢を見なくなってからも、故郷の風景を説明するような感覚で、こうして思い出すことができる。

冒頭に述べた現実世界への違和感は、自分の心の原風景がそうした夢に彩られていることと、関係しているのかもしれない。

仕事でご一緒する方から、人生に影響を与えたオススメ本として、『イシュマエル』をお借りした。なぜ買わずに借りたかというと、伝説的な本ながら、日本語版はすでに絶版になっているからだ。世界の見方を探求する主人公が、言葉を理解できる聡明なゴリラに出会い、人類と生命の歴史を紐解きながら、少しずつ視点を転換していく物語だ。ネタバレになるといけないので、詳しくは言わないけれど、キリスト教やユダヤ教でよく知られた「アダムとイブの楽園追放」の神話に関するとても興味深い解釈も出てきて、面白くて一気読みしてしまった。

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