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グッド・アンセスター・ダイアローグ「医療、芸術、教育という3つの道を混ぜ合わせる。」稲葉俊郎さん

医師という立場にありながら、幅広い眼差しで医療を捉え、「職業」を超えて広く世に関わり、発信を続ける稲葉俊郎さん。生物の長い歴史と共に、今あるわたしたちの「あり方」をみるロングタームの視点や、先人たちの人生を受け継ぐように自らを生きる姿は、僕らをディープ・タイム(長期的時間軸)へと誘う。親しい友人でもあり、僕にとって生けるグッド・アンセスターでもある稲葉さんに、第一回目のゲストにお越しいただいた。

グッド・アンセスター・ダイアローグは、『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか』(ローマン・クルツナリック著、松本紹圭訳/あすなろ書房)を巡る対話シリーズ。翻訳した松本紹圭がホストとなり、各界からゲストを迎えてお届けしていきます。

(文字起こし 小関優/構成・執筆 杉本恭子


人間の身体には、地球誕生からの壮大な時間軸が入っている

松本 今日は「グッド・アンセスター」というキーワードを巡っておしゃべりをさせていただきたいと思います。

稲葉 『グッド・アンセスター わたしたちは「よき祖先」になれるか」というタイトルはすごくいいなと思っています。僕もまさにこういう発想でものごとを考えていますし、いろんな人にインスピレーションを与える本になると思います。

松本 ありがとうございます。この本を翻訳させていただいて、改めて「宗教者、お坊さんの仕事って何なのだろう?」と考えると、ものごとを長い時間軸で捉えて生きて行くという立ち位置なのかなと思いました。どんどん短期目標に引っ張られていく現代社会であるからこそ、宗教者、あるいはお寺や神社という空間としても、違う時間軸の風を吹かせる役割が大事になっていくのかなという気がしていて。ゴーギャンの『我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ行くのか』という絵画がありますが、宗教的な時間に込められてきたのは、この問いかけそのものではないかと感じています。

稲葉さんは、軽井沢病院の副院長であると同時に、大学での教育研究、書籍の執筆などをされています。お忙しいなかでも短期目線にならない大きな目線を、日々の暮らしでも大切にされているのではないかと思います。どんな風に長い時間軸をもっていらっしゃるのかを聞いてみたいです。

稲葉 東大病院時代には、心臓を内科的に治療するカテーテル治療や先天性心疾患を専門としていたので、1秒、2秒で病態が変わってしまう患者さんに対して、短期間に集中して治療や蘇生を行っていました。プロフェッショナルな技術や知識、瞬間的な判断力が求められる重要な仕事ですし、もちろん充実してはいました。ただ、僕の根本にはやはり、人間のいのち全体、からだ全体、こころ全体に向き合いたい思いがあり、その一環として心臓の治療をしているところがずっとありました。

いのちの全体性、からだの全体性を真面目に考えていくと、「人間のいのちや身体はどうやってできたんだろう」「なぜ、人間の身体はこんなかたちや成り立ちをしているんだろう?」という問いが立ちます。そこで、他の生物を見るとまったく違うかたちをした生き物がたくさんいます。人間の身体は、何億年という歴史のなかでできてきて、それ以前には人間がこういう身体になる以前の共通のいのちのかたちがある。地球や海、生命体の誕生という歴史の時間軸のなかで、この身体ができているという鉱脈に至るわけです。

人間のいのちや身体のかたちを考えようとすると、結局は壮大な時間軸のなか捉えないかぎり、本当のところはわからないんです。人間のいのちには、人生を送る何十年単位の時間軸だけではなく、このいのちや身体が成り立つまでの何十億年という時間軸も実は入っている。僕は、そういう考え方をとても大切にしています。

「よき祖先になれるか?」という問いかけは未来も含んでいる

松本 「アンセスター」はどちらかというと過去に向いている言葉ですが、「わたしたちは『よき祖先』になれるか」という問いかけ自体は、実は未来も含んでいるんですよね。わたしたち自身が、過去の祖先を振り返る存在であると同時に、未来の人に振り返られる祖先になる。その両方があって初めて、過去から現在に受け継いで来た恵みを、未来へと受け渡していく流れが通っていくんだと思います。

『グッド・アンセスター』には「いかに未来世代にブリッジしていくのか」というところにすごく大きなメッセージがあります。だから、死者供養を重視して来た伝統仏教のお坊さんであるわたしが、この本を翻訳する意味があるんじゃないかと思いました。今のお話では、歴史を辿っていくという要素が出てきましたが、まだ見ぬ次の世代にどんな関係性を感じていらっしゃいますか?

稲葉 この世の中の無数の職業から、僕が医者を選ぶことになる流れのなかで、「この人のようになりたい」と憧れたのは、岡本太郎、横尾忠則、手塚治虫、レオナルド・ダ・ヴィンチなどなんですよね。地球上にはいろんな人がいるけれど、この人たちに影響を受けて医者になった人は、意外とひとりしかいないんじゃないかと思っているわけです。

松本 たしかに。岡本太郎に影響を受けた人は無数にいるだろうけれど、そういった人たちから影響を受けた結果として、医師になる人はそういないでしょうね。

稲葉 そうそう。この配合のなかにこそ、自分というものの役割の意味があるんだろうとよく思うわけです。だからいつか、自分が死者の側に回ったときに、「稲葉俊郎に影響を受けているかもしれない」という人がたったひとりでもこの世にいるのなら、やっぱりそれに恥じない生き方をしたい。それは、自分が影響を受けた先人たちに対しても思うし、未来を生きる人たちに対しても同じように思いますね。

先人たちから渡されたバトンを、次の世代に渡す連なりのなかにいる自覚をもつ必要があるという意味で、「よき祖先」というテーマにはすごく響くものがありますね。


好きだという感情による継承には自然な強さがある

松本 この本を翻訳してから、ワークショップや人と対話するときの問いかけのなかに、その要素を自分なりに盛り込んでみているんですね。そのなかでちょっと発見があって。「あなたにとってグッド・アンセスターとは?」と問いかけると、誰か特定の人がぱっと想起されるのですが、「よき祖先から受け取った恵みとは?」と、「恵み」にフォーカスすることも重要だなと思っているんです。たとえば「先人から受け取っている恵みを挙げてください」と言うと、みんなぱーっと書き出すんです。

誰にも先人から確かに受け取った恵みがあって、その恵みの組み合わせによって「わたし」ができているとも言えます。もちろん、血縁で繋がっていてDNAを継承する子孫にもバトンは渡されていくでしょうけれど、DNAを継承していなければ未来世代にバトンを渡せないというわけではありません。いろんなかたち、レイヤーで僕らは恵みを渡していることに気づくということにも、この本が寄与できたらいいなと思うようになりました。

稲葉 そうですね。やっぱり、家族というのは一番シンプルで原始的なコミュニティです。なにごとかを継承するときに「家族だから継ぎなさい」という理屈はわかりやすいし、家制度にはそういう機能も間違いなくあると思います。でも、文化や土地の風景を継承していくというのは、必ずしも血縁であるからということではなくていいのではないか。むしろ、そういうものを「好き」「愛している」とか、素朴な感情のなかで集まった集団のなかで継承されることも、僕は自然なことだろうと思うんですよね。

たとえば、小学校や中学校は同じ地域に住んでいる同年代の子どもたちのコミュニティですが、高校以上になると成績があるレベル以上だった人の集まりになってきます。このあたりから、ちょっとよくわからない集まりになっていくところがあるわけです。また、会社に入ると、必ずしもみんなが同じことを思っているわけではなく、それぞれの考えのもとに集まっている集団になったりしますよね。

それに対して、何かを好きな人が集まるコミュニティは自然だと思うし、「好き」というのは根拠がないゆえにある意味強いところがあります。僕は、「好き」だと思う人たちによってものごとが継承されていくことも、祖先とのつながりという意味で強いのかなと思うことがあります。


「何者かになりたい」よりも「何かをつなぎたい」感覚の方が強い

松本 稲葉さんは医師でありながら、山形ビエンナーレ2020の芸術監督を務めるなど、美やアートの領域にも関わられています。でもきっと、広い意味では「医の道」なのかなと僕は見ていて、「道」ということについて考えられる場面も多いのかなと思います。「道」もまた継承ですよね。

稲葉 そうそう。日本の歴史や文化を見ていると、ものごとを美しいものに昇華して「道」として残すことを好んだのではないかと感じています。美や芸術、文化をどういうパッケージで包んで継承していくかというときに、芸道、武道などの形で伝えていくことにしたのは、ある種の工夫だったのか、自然とそうなってしまったのかはわからないですけども。

松本 稲葉さん自身は、自分がどんな道に連なっていると感じておられますか。

稲葉 僕は先祖や祖先の話が好きで、3世代、4世代ぐらい前までの話を聞いていると、医療、芸術、教育の畑にいる人が多いんですよね。その合流したところに現代として僕があり、医療、芸術、教育の3つに橋を架ける位置に自分のなかの「道」があるのかなと考えています。

松本 3つの道の交差点にたっているんですね。

稲葉 交差点に立っていて、3つの道を混ぜ合わせる役割が必要で、自分にはそういう役割があるのかなと。僕はそういう役割が「好きである」ということも、とても重要なことだと思っています。「何者かになりたい」という野望よりも、「何かをつなぎたい」という思いの方が勝っているなとよく感じるんです。

松本 ああ、そうですね。たしかに僕も、以前は「何者かになりたい」という感覚がもうちょっとあったような気がするのですけども。

稲葉 学生の頃なんかは、アイデンティティを形成するプロセスのなかで、やっぱり「何者かになりたい」と思うのでしょうけれども。その時代を通過した後に、「何者かになりたい」という主体的な考えよりも、「間の存在になっていきたい」という思いのほうが勝つ感覚になっていきました。それは、仏教的な考えなのかもしれませんし、歴史的な磁場の影響なのかはよくわからないのですが、自然にそうなっていったと思います。


無数の人たちによる創造と破壊のダイナミズムのなかで

松本 器としての自分という感覚が増していくというのでしょうか。稲葉さんは今、医療と芸術と教育という3方向の道から流れてきた恵みが交わる交差点に立って、その先をどんな風に見てらっしゃるんですか。

稲葉 もともとは混沌と一体化していた医療や芸術や教育を、きれいに仕分けしていったのが現代だとすると、ふたたび混ぜ合わせたいという思いが僕のなかにあるんです。社会というものは、創造と破壊、カオスとコスモスを繰り返すことによってバランスを取っている。その長い時間軸のひとコマである今、分かれたものを混沌とかきまぜる時代に自分はいるのかなとかね。

松本 カオスとコスモスの運動の真っ只中にいるわけですものね。

稲葉 真っ只中にいるときはなかなか自分の位置がわからないことはあるけれども。「今は最悪の時だ」と、人はネガティブな方向に引っ張られやすいのですが、歴史的に見ると繰り返されるダイナミズムのなかで、社会は少しずつ良くなっているという実感が僕にはあるんですよね。その流れのなかで、少しでも良くなる方に自分も貢献したいという思いが、「よき祖先」というところにもつながるのかもしれません。

松本 過去を生きた無数の人たちが、恵みを受け渡し、積み重ねてきたところに、我々は今立っているわけだから。また、今を生きる無数の人たちが、受け取った恵みを受け渡しながら、無数の流れをつくっていくのでしょうし。

稲葉 自分の人生は、主人公である自分のカメラで世界を見ているから、俯瞰的なカメラに戻って見る機会は少なかったりします。でも、俯瞰的なカメラで見るからこそ、迷っているときにも自分が行きたい方向性がまた見えてくるわけですよね。そのきっかけを与えるのが、長い時間軸のなかにある無数の流れを見る視点なのかなと思います。

松本 稲葉さんには、日々のなかで俯瞰的なカメラで見るためのプラクティスがあるのでしょうか。

稲葉 芸術監督を務めた山形ビエンナーレ2020のテーマは「全体性を取り戻す芸術祭」でした。医療と芸術が交わることが人間の全体性を取り戻すことだと考えたんです。やっぱり、そういうのが好きなんでしょうね。「全体性」ということをぱっと考えたときに、カメラがスーッと引いていくように、視点が引いていく感じがあります。そうすることで、俯瞰するという行為を想起させているのかもしれません。

芸術や宗教は、この世という“鏡の世界”から“本当の世界”を扱っている

松本 医療、芸術、教育という流れの交差点に立っている稲葉さんから見て、宗教はどう見えているんですか?

稲葉 お能をやるときによく感じるのですが、この世が「現世(うつしよ)」だとすると、あの世が本当の世界で、この世は鏡の世界ではないかと。その本当の世界を扱っているのが宗教やある種の芸術だと僕は受け取っています。

松本 芸術と宗教の違いは、どこにあると見ていますか?

稲葉 うーん。まず、僕の中でぱっと浮かぶ宗教の悪いところとして、組織化していくなかで生まれるある種の排他性があると思います。芸術と宗教は、何かを探求していくという意味ではすごく近い作業なのですが入り口が違っていて。宗教は真善美で言うと「真を知りたい、善を知りたい」、芸術は「美とは何なのかを知りたい」という入り口になるのかなと思います。

日常生活で、真や善を探求するのが宗教もしくは哲学になるのかな。あまり日常の中で行われない行為ですけども、人間である以上すごく根源的な大事な営みですし、宗教のすごく素敵なところだと思います。

松本 そうですね。宗教って組織になっちゃうと、囲い込み的なところが出て来てしまう。もしかして、芸術もまた組織になってその中に閉じ込められちゃうと似たようなことが起きてくるのかもしれません。ただ、人間の営みはそれをずっと繰り返して来ているとは思うんですね。囲い込んだり閉じ込めたりするようになってきたときに、「いや、これじゃなかったよね」とまた気がついて、新しい波が生まれてくるということもずっと繰り返してきている。

そういう意味では、宗教も行くところまで行って、こういう時代感のなかで新しいうねりが起きてくるのかなと言うことも予感しています。僕もまた、そういったうねりに参加できればいいなと思って動いていて、そのひとつの営みとして今回の翻訳もあります。

稲葉 僕は『いのちを呼びさますもの』という本で個人の話を、『いのちは のちの いのちへ』という本では個と場の関係性を書きました。医療行為が行われる病院が、場として機能するとどうなるのかを本質的に書きたかったんです。

個人で真理を追求するという道と、場をつくって集団で真理を追求する道があって。集団になることで何かが促進される良さもあれば、集団の論理が圧力として働くということもある。個と場は、常に相互に影響を与え合っている関係性だと思うんです。おそらく宗教は、「個人としての営み」と「場をつくる集団としての営み」の関係性をもう一度新しくしないといけないのではないでしょうか。

枠のなかに留まることで、枠を乗り越え広げていく

稲葉 紹圭さんが「仏教」ではなく「仏道」と言われているのは、個人としての仏道と集団としての仏教が新しい関係性に移行していくことを意識されているのかなと思うのですけども。

松本 そうですね。最近、「宗教」=囲い込みとするならば、あらゆる組織が多かれ少なかれ「宗教」ではないかと思うんです。たとえば、企業でも毎朝社長のクレドを全員で読むという「儀式」があったりしますよね。わかりやすい宗教組織の形を取らない「宗教」が増えている。

僕が「浄土真宗という教団に属しています」と明らかにしてお坊さんをやっているのは、「宗教、仏教、浄土真宗」という枠を乗り越えていこうとしているからなんです。稲葉さんも医師として医療の世界に属していながら、その枠の中だけに留まっていないですよね。そういうスタンスが、これからきっと大事になると思います。

稲葉 うん、そうですね。医療、芸術、教育に橋を架けるというのもそういうことで。複数の円に重ならない部分があるとき、僕は医療という円の枠を拡張させて重なりを広げたいと思っています。僕がやっていることは、そういう枠のなかで拡張していくことによって、他との接点をつくっていくことなんだなと思うんです。だから、紹圭さんがやっていることを、僕は同じような風景として見ています。

松本 そうですね。僕は自分は「ひじり」だと考えていますが、稲葉さんはひじり系医師だなと思います。今日はお時間をいただいてありがとうございました。


稲葉俊郎(いなば・としろう)
1979年熊本生まれ。医師、医学博士。医学博士。東京大学医学部付属病院循環器内科助教を経て、現在、軽井沢病院副院長を務める。信州大学社会基盤研究所特任准教授、東京大学先端科学技術研究センター客員研究員、東北芸術工科大学客員教授などを兼任(山形ビエンナーレ2020 芸術監督)。西洋医学に止まらず、伝統医療、代替医療、民間医療も広く修める。未来の医療と社会の創発のため、伝統芸能、芸術、民俗学、農業など、あらゆる分野との接点を探る。
著書に『いのちを呼びさますもの』『いのちは のちの いのちへ』(アノニマ・スタジオ)、『ころころするからだ』(2018年、春秋社)、『からだとこころの健康学』(2019年、NHK出版)など。ウェブサイトは、https://www.toshiroinaba.com

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