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世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない


「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」

宮沢賢治のことばだ。最近、このことばをまったく違う場面で何度か耳にした。何かこのことばが僕に訴えかけているのだろうか。もちろん、宮沢賢治によってずいぶん前に世に放たれたことばだから、僕も以前からこのことばは知っていたし、これまでだって世界のあちこちに散りばめられていたはずだ。

そんな古いことばが今、急に聴こえるようになってきたのを偶然と片付けてしまうのは簡単だけど、もっと違う世界の見方があるんじゃないかと、それこそこのことば自体が語りかけているようにも思える。それはロマンチックに言えば、時空を超えて宮沢賢治から僕にメッセージが届いたのだし、もう少し自分の身体に即して言えば、今までも存在していたのに見過ごしていたことばを受け取れるように自分の耳が整ったのだろう。

世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない。

これはどういう意味だろう。常識的に考えると、不思議な表現だ。僕たち人間が存在する最小単位としてまず「個人」があり、それが大小の集団をなして活動する総体を「世界」と考えるならば、個人は世界の部分に過ぎない。まず個人の幸福があって、一人一人の幸福が実現された結果として、世界全体の幸福が訪れるのではないか。そう考えるのが普通だ。

けれども、その「普通」は案外、近代に成立した歴史の浅い考え方だったりする。「最大多数の最大幸福」を説いたベンサム、快楽の質的違いを勘定に入れてベンサムの思想を発展させたミル。1800年代に活躍した彼らイギリスの哲学者たちの思想に基づいて、自由主義や社会民主主義、リバタリアニズムなど、今日の人間観や世界観に連なる思想が展開されてきた。

それ以上分けることのできない「個人」という最小単位。そこから人間の幸福を考えていこうという思想は、個人(=individual)、つまり、分ける(=divide)ことのできない構成単位、という単語そのものにも反映されている。

僕自身、この人間観・世界観があまりにも強くインストールされてしまっているので、ぼんやりしているとあたかも空気のように「個人」と「世界」を分けて捉えてしまうが、仏教は一貫して、そうではないと言い続けている。特に、大乗仏教の祖師たる龍樹(ナーガールジュナ)は縁起/空の思想によって、分離のビジョンの誤りを徹底的に喝破した。般若心経において「無」とか「不」とか否定語が重ねに重ねて繰り返されるのは、象徴的だ。

宮沢賢治は日蓮、法華経への深い信仰を持ち、大乗仏教を体現していた。アメニモマケズなど、菩薩の行者そのものだ。そんな彼の中には、個人の総体としての世界、個人の幸福の総和としての世界のぜんたい幸福、といった考え方はなかったに違いない。「個人と個人ははっきりと分けられないから、個人と世界はどこまで行ってもつながっている」というのでもまだ生ぬるい。「つながっている」ではまだ、切り分けられる最小単位としての個人が想定されているからだ。

「世界がぜんたい幸福にならないうちは、個人の幸福はあり得ない」と言い放った宮沢賢治においては、「個人の幸福」の前に「世界がぜんたい幸福」が先立っている。宮沢賢治における、世界とは何か、個人とは何か。専門家の議論はわからないけど、宮沢賢治の大乗的ビジョンの徹底が伝わってくることばだと思うし、そのことばがあらためてリアリティを持って響くところに今、自分が立っていることを感じている。

最近、僧侶という立場にこだわらず、持てるものを総動員して世界と関わっていこうとしている。石油ではなくデータが通貨になると言われる21世紀を、どう生きていくのか。社会の変化とともに、新しい苦もたくさん生まれている。そんな中で見えてきているのが、人間中心主義の限界、そして個人を人間の最小構成単位として見る世界観の限界だ。コロナ禍の中、フランス革命以降の世界で拡大の一途を辿ってきた個人の人権が問い直されるようになり、公の利益が個人のプライバシーより優先される、ビッグデータによる新しい監視社会が構築されつつある。

ここであらためて、龍樹の大乗仏教的世界観で世界を捉えなおすことの必要性を強く感じる。それは既存の世界観のオルタナティブ(代替案)として「仏教的なモノの見方」を提示しよう、というような生ぬるい話ではない。オルタナティブとしてではなくて、明らかな見方、自然な見方、そのままの見方としてそれを提示しなければならない。むしろ、今まで少なからず仏教に関わって社会にそれを提示できる立場に立っていたのに、生ぬるいことしかやってこなくてごめんなさい、という気持ちが湧いている。「今までの世界の見方は完全に誤りだった」と、今こそはっきりと言うべきだ。

過去を反省しつつ現況をポジティブに受け止めるなら、そのような発信がやっと受け止めてもらえる情勢がやっと整ったとも言える。先日、独立数学研究者の森田真生さんと、京都の法然院で対話する機会を得た。最近、協生農法にはまっている森田さんの世界観は、すっかりinter-beingに移行している感じがした。「ポリフォニーとは、一人一人が自分らしい声を発することができる、という事態にとどまらない。発する人と聴く人の両方があって、声は声として現れる」という話に、その対話を眺める人たちもうなづいていた。こういう話題が共感をもって受け止められる時代に入っている。

幸福度であれ行動履歴であれお金であれ、データのアカウントを個人に紐付ける発想自体、まったくもって誤りだったのだ。大乗仏教が一貫して言ってきたのは、世界の本質的あり方は縁起/空であり、人間のあり方は徹頭徹尾inter-beingであるということ。「わたしのウェルビーイングから、わたしたちのウェルビーイングへ」というステートメントは、間違ってはいないけれど、明瞭さが足りなかった。今ならこう言いたい。「わたしのウェルビーイング」など存在しない。ウェルビーイングは常にわたしたちの上にのみ現れる、と。なぜなら、縁起/空の中で都度(あるいは”永遠の今”)に立ち現れるinter-being(=わたしたち)としてしか、わたしは世界にあることはできないからだ。

「個人(=individual)」という発想の呪いにかかった近代人に訴えかけるため、宮沢賢治はあえて自分の中にはない発想の「個人」という単語を使ったのかもしれない。

2020年代の大乗仏教の縁起/空を体現することが、縁あって仏教に触れた人の大事な役割になるだろう。


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