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変わりたくない、変わらねばならない。

終身雇用が一般的だった時代、会社の中には生え抜き社員の方が大半で、転職組は少数だったかもしれない。最近は、企業規模や業種にかかわらず、中途採用で働く人がずいぶん増えた。

産業僧としてさまざまな企業とご縁をいただいている。担当者として対応くださっていた方が、翌月伺った時には、退職されたと知らされることも何度かある。ふだん、住職の方々との付き合いが多い自分にとっては、「僧侶を辞める」とか、「宗派を変える」「お寺を変える」といったことは滅多にないので、そうした人の変化は新鮮でもある。

仏教は、誰にでも平等に門が開かれている。とはいえ、たとえば座る席順など、序列をつける必要のある時は、1日でも先に入門した人が先というふうに、入門したタイミングによって前後が決まる。より長くいる人が先輩。シンプルだ。

しかし、会社はそうはいかない。会社に入ったタイミングだけではなく、役職や職種、所属など、さまざまな要素によって人間関係は複雑になる。ましてや、多様な経歴の人が混じり合えば、一つにまとまろうとするほどに摩擦が生まれることは想像に難くない。今日まで辿った経路によって、見てきた世界も見える世界も異なって当然だ。

そこに生まれるモヤモヤには、こんな傾向があるようだ。

長年同じ役割や場に身をおいてきた人は、「昔の職場はこうだった」と振り返る。自分が入社した頃は、もっとみんな大らかで人間関係もよかったし、仕事もこんなに忙しくなかった。でも、今の会社は、上からの締め付けが厳しくなって、目標管理も細かくなり、人間関係も殺伐として、働くのがしんどい、というふうに。

転職されてきた方は、「前職ではこうだった」と振り返る。かつていた会社では、周りの人との関係ももっと濃いものがあって、有給も取りやすかった。でも、今の会社は、他の人が会社に残っていると帰りにくい雰囲気だし、こんなに単身赴任があるなんて聞いてなかった、というふうに。

人は、何歳になっても、どのようにあっても「よりよくなりたい」と思うものだ。苦しみのなかにあっては尚更だろう。現状に留まらず前進しようと湧き出る思いは、生きる力になる。一方で、基本的に人は変わることを嫌がる。握りしめてきたものを手放すのは、勇気がいる。望むあり方を過去の経験に投影すると、「昔はよかった」と、隣の芝生は青く見えてくる。

けれど、よくよく思い返してみれば、その過去においても、「よりよくなりたい」と望んでいた私が、いたではないか。

そこで仏教が教えてくれることは、「今から始めればいい」ということだ。

「自業自得」という言葉がある。これはもともと仏教の言葉で、シンプルに、過去の行いや選択によって今の自分が生まれていることを指す。

反省して悔やみながらも、同じことを繰り返してしまうことがある。わかっているのに、やってしまう。悔やむことで自分を痛めつけ、その痛みによって過去を贖おうとしているのかもしれない。贖ったつもりになって、同じことを繰り返しては、苦しみは繰り返される。

悔やむより、どのような結果も受け入れて、次なる行動に生かすことで「よき縁」にはこばれてゆく。常に、可能性に開かれているのだ。

「こんな "はず" ではなかった "はず" 」と、「はず」の思いが繰り返されているときは、悩むことはない。今から「よき縁」へとしていけばいい。

同様のことが、会社でも起きている。
「どうして、うちの会社は変われないのか」と嘆く経営者の声を聞くことがある。多くの場合、業績が落ち込んでいたり、社員のエンゲージメントが下がっていたり、なんらかの動きが現れている。それ自体が、大きな変化そのもだ。「変われない」ことはない。既に変わり始めている。

しかし、組織もまた、変わることを恐れている。起きている変化から目を背け、経営者自ら、会社と社員を大切にしようとするがゆえに、組織に起こる摩擦を減らし、なるべく変化の少ない安定した環境を維持しようと努力する。子を思う親の心にも似ているかもしれない。「変わらなければ」と思いながらも「変わりたくない」葛藤にある。

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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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