能力とは、何か
能力とは、何か。
「既に備わっているもの」「身につけていくもの」「鍛え高めるもの」と、捉え方はいろいろありそうです。
仏教には「開発(かいほつ)」という言葉があります。開発(かいほつ)は、本来あるものが養われていくプロセスであり、開発されるのは、そこにある仏性という「可能性」と言ってもいいかもしれません。
そこにあるものが、縁(他者や環境要素との関わり)のうえにひらかれ、生かされ、育まれる。自力によるはたらきと、他からもたらされるもの。内から湧き出る「おのずから」と、「みずから」の意識掛け。それぞれが共にあってこそ、開発(かいほつ)の道はひらかれます。
それは、自身が生かされることであると同時に、多様な他者を生かすことにも通じます。樹木は年輪を重ねながら、生きものたちの棲家となり、食べものとなり、日陰をつくり、大気を循環させます。花を咲かせて蜜を蓄え、散れば、滋養に満ちた種や実りをつける。朽ちてなお、肥やしとなって巡ります。命を生かすのは、そのもの自身であると同時に、環境であり、関わりあいです。
自身を含む環境によって育てられ、自らもその一部となって他者を育てる。そうしたこの世のはたらきに目を向けた時、果たして能力とは、なんでしょう。誰かのどこかにあるものでしょうか。
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先日、組織開発コンサルタントの勅使川原真衣さんと、朝日新聞の連載「Re:Ron」の企画で対談の機会をいただきました。テーマは「能力社会を歩く」。
産業僧として、様々な会社、様々な立場で働く方々と対話をしながら、多くの方が「能力」にまつわるモヤモヤを抱えているのを感じます。職場に限らず、教育の現場から趣味やアートの世界まで、私たちは自分や他者の「能力」をめぐるモノサシに振り回されてはいないでしょうか。勅使河原さんの著書『「能力」の生きづらさをほぐす』は、そんな私たちに向けられた一冊です。本質を捉えながら丁寧に読みやすく綴られていて、この社会で生きづらさを感じる方に、ぜひ読んでいただきたいと思います。
勅使川原さんの本から得た私の気づきは、少し話が飛躍するようですが、法然、親鸞の説いた念仏道は、「能力」という発想を捨てたことなのではないだろうかということです。
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仏教は、ブッダの教えであると同時に、ブッダに通ずる道でもあります。「ブッダ」というのは、目覚めた人という意味です。
ゴータマ・ブッダは、2500年前のインドにおいて、悟りをひらいて目覚めた人です。
ゴータマ・ブッダは、ブッダになる前、ゴータマ・シッダールタという名を授かって釈迦族の皇子として生まれました。この世のモノサシにおいては何不自由のない裕福な暮らしに恵まれながら、シッダールタは、生老病死という避けられない人間の苦しみを見つめ、内省と思索を重ねます。29歳の時、「私はブッダになりたい(悟りをひらき、目覚めたい)」と発心し、すべてを捨てて出家をします。6年間の厳しい修行ののちに、シッダールタは悟りをひらきゴータマ・ブッダ(=目覚めた者)となりました。
「私はブッダになりたい(悟りをひらき、目覚めたい)」
自ら悟りを体現したゴータマ・ブッダのもとに、なりたい願望はもはやありません。代わりに、この穏やかで静かで浄らかな境地を人々へ伝えようと、80歳で肉体を離れるまで「ブッダになる私たち(目覚めゆく私たち)」へと縁を導く伝道の旅を続けました。
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親鸞は、1173年、日本の平安末期、戦乱と災害と飢饉によって争いと死が渦巻く混迷の時代に生まれました。9歳で得度し僧侶となった親鸞は、当時、日本仏教の総合大学であった比叡山へ上り、二十年にわたって厳しい修行に没頭します。中でも、常行三昧という阿弥陀仏を観想する極めて厳しい修行に挑戦したと言われます。
なぜ、彼はそんなにも厳しい修行に励むのか。それは、悟りをひらくために他なりません。親鸞もまた、「私はブッダになりたい(悟りをひらき、目覚めたい)」と人一倍強い願いをもって修行に臨みました。しかし、どんなに厳しい修行を重ねても、煩悩から離れられない「私」に気づいていきます。執着を捨てられない。心の汚れがなくならない。目覚めることなど、できそうにない。
親鸞が比叡山で思い知ったのは、自分にはブッダの悟りを得られないという現実でした。「ブッダになりたい」と願うほど、叶わぬ現実を突きつけられます。失意のなか比叡山を降りた親鸞が出会ったのが、法然の説く「念仏」「他力」の仏道でした。どんな人でも、願えば必ず悟りへ導かれる(ブッダになってゆく)道。親鸞は法然の元に通い、その声にひたすら耳を傾け、念仏しました。
生涯を通じて一心に念仏を称えた法然と親鸞の一生に、「そうして二人はブッダになりました)」という結末はありません。少なくとも、今生でこの身このままブッダになった(悟った)とは言いません。相変わらず、私とは、煩悩を抱えて迷う人間のまま。
それでも、そこにはたしかに展開される道がありました。
「ブッダになりたい」「私はブッダになるのだ(私は悟りをひらきたい、目覚めるのだ)」という強い願いと決意から出発した仏道は、歩みを進め、深まるなかで「私」という主体、「私がなる」という決心、さらには、そうなろうと意図することからも離れていきます。
我が身と環境との間(Interbeing)に立ち現れて展開されるプロセスそのものになっていく。「そうなってゆく(becoming)」あり方へとシフトしていったのです。それが、親鸞の語る「他力本願」であり、晩年にたどり着いたと言われる「自然法爾(じねんほうに)」という境地に現れています。そうして、「私」である限りブッダになれない我が身を見つめながらも、ゴータマ・ブッダと同様に「ブッダになる私たち(目覚めゆく私たち)」へと縁を導く伝道の旅を続けたのです。親鸞が辿った仏道は、あまねくすべての存在へブッダになりゆく縁をひらいた人生でした。
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最近では「覚悟を決める」というと、強く決心することを表しますが、「覚悟」とは本来仏教用語で、真理に目覚め、体得することを表します。覚悟が目覚めることならば、覚悟とは、自分の意思でコントロールできるものではなさそうです。むしろ、覚悟とは、覚悟しようとする「私」を手放していくことかもしれません。
ここで、「能力」とは何かと、冒頭の問いに立ち返りたいと思います。親鸞には、ブッダになる能力がなかったと言えるでしょうか。能力を「開発(かいほつ)されゆくもの」とみるならば、それは、本来あるものが縁のうえに養われていくプロセスそのもの。仏教は果てしない可能性をすべての存在にみています。
みんなさんにとって、「能力」とは何でしょう。
勅使川原さんの著書にいただいたサインの脇に添えられていたのは、「永遠の未完」という応答でした。
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