見出し画像

言葉からはみ出すもの

”The Good Ancestor”の翻訳作業に没頭中。今回初めて英語から日本語への翻訳の仕事をやってみて、わかったことがある。

それは、英語から日本語への書籍の翻訳は、英語が読めればできるわけではない、ということ。

当たり前といえば当たり前だ。英語しか話せない人が、日本語に翻訳することはできないし、逆もまた然り。でも、つい日本人ならほぼ100%日本語が話せるという前提に立ってしまうと、あとは英語力さえあれば大丈夫、という短絡的な発想をしてしまいがち。だが、翻訳とはいえ、最終的には日本語の文章として新しい本を執筆することになる。つまるところ、訳者でありながら、著者なのだ。しかも、すでに原文の著者がいるわけだから、あまり出過ぎたことをしてもいけない。自分オリジナルの著書よりも、さじ加減に気を遣うし、責任を感じる。

今更ながら、翻訳には、英語の正しい理解力もさることながら、日本語の正しい運用力が必要だ。著者の意図や文章のニュアンスをしっかりと汲み取った上で、なおかつ世に定着している単語やフレーズの定訳も踏まえつつ、正しく美しい日本語をゼロから書かなくてはいけない。DeepLなどAI自動翻訳システムの目覚ましい進化を見て、「これからの時代、翻訳家は必要なくなるんじゃないか」などと思ったりもしたけれど、どうだろう。原文をとりあえず日本語にしてざっと大意をつかみたいときなど、ある部分ではそうかもしれない。僕自身も、最初の下訳の下訳は、AIのお世話になった。しかし、翻訳においてAIが人間と同じ仕事をするようになるまでには、まだもう少し時間がかかるだろう。そして、「この人の翻訳なら、読んでみたいな」という、訳者にひもづく人間の感情が存在する限りは、これからも人間とAIの協業が続くのではないだろうか。

幸いにも、僕が取り組んでいる”The Good Ancestor”は、著者のRomanが哲学者で論旨と文法がしっかりしている上に内容が面白いので、翻訳作業がとても楽しい。作業には恐ろしく時間がかかるけれど、この作業を終えた頃には、Romanのメッセージが自分の血肉となっているだろうし、本の内容が内容だけに、過去の祖先や未来の世代の人たちともしっかりつながる感覚を持てそうだ。今まで知ることのなかった「翻訳家」という仕事の面白さが、ようやくわかってきた。

テレビとラジオのアナウンサー、両方に携わっている友人と少し話をする機会があった。ラジオの仕事の打ち合わせの時、僕が「テレビとラジオは性質が違う。映像メディアは情報(コンテンツ)を配信するのに向いているけれど、音声メディアは”情報以前の何か”を伝えるのに向いている」と言ったら、なんだか思い当たる節があったみたいで、痛く感心していた。テレビもラジオも関係なく、局の上司からは「アナウンサーは正確に情報を伝えることが仕事だから、個性は出すな」と言われるのがしんどいと言っていたけれど、個性を出そうと消そうと、人間がそこに立っている限り、にじみ出ているものはあるのだから、自信を持って立てばいいと思う。

面白いなと思ったのは、それでもテレビとラジオで載せられるコンテンツが微妙に違う、というところ。アナウンサーが季節のニュースなどで(台本にしたがって)身の回りの話題に触れることがあるけれど、テレビだと「ふきのとうが芽を出しました」とか、基本的に映像で撮れるものしか触れたがらないのに対し、ラジオだと「森には春のにおいが満ちています」みたいに、画に撮れないものを言葉で表現する余地が広がるらしい。

ここから先は

2,245字

このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

"Spiritual but not religious"な感覚の人が増えています。Post-religion時代、人と社会と宗教のこれからを一緒に考えてみませんか? 活動へのご賛同、応援、ご参加いただけると、とても嬉しいです!