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「グッド・アンセスター」がもたらすお寺の変化を予測する

まもなく『グッド・アンセスター』が書店に並ぶ。翻訳者として、分野を問わず現代を生きる人に広く読んでほしいと心から願っている。本が話題になるためには、紀伊國屋をはじめとした有力書店店頭での売れ行きが鍵になるらしいから、可能な方は、ぜひ書店店頭でお求めください。もちろん、amazonで事前予約してもらうのも、ありがたし。


さて、僕自身、この「グッド・アンセスター(よき祖先)」というテーマから、お寺のあり方の転換の着想を得た。

 ・まず、「先祖から祖先へ」意識のシフトを促すことにより、血縁に限定しないあらゆる縁へと死者との関係性を拡張すること。
 ・次に、「血縁の子孫から人類の子孫へ」、過去の死者への思いを未来の未生の人々への思いへと、回向する(振り向ける)こと。
 ・そして、それを踏まえて、今の自らの生き方を問い直し、整えていくこと。

グッド・アンセスターは、先祖概念の拡張の話でありながら、同時に、子孫概念の拡張であり、結果的に、「私」的領域の拡張につながっていく。


最近のnote記事にTwitterでも反応してくれた、妙法寺の久住さんとおしゃべりをしたら、こんな動画を教えてくれた。

▼ 100分de名著 100分de災害を考える(2)「柳田国男“先祖の話”」

柳田國男の『先祖の話』という名著を、若松英輔さんが解説している動画。あまりにも自分の問題意識と重なるところが多すぎて、もう、自分の仕事はないんじゃないかと思うくらい。20分強の動画、最初から最後まで隈なく観てもらいたい内容だ。

特に、「イエ」のご先祖になれない状況についても触れ、「家族でだけ作るのではない、亡き者たちとの繋がりを豊かに持ち得る共同体を作っていい」というくだりは、まさにグッド・アンセスターの話だ。


概念的なことは十分に書いてきたので、少し具体的な話をしたい。

少し前の記事に書いた「グッド・アンセスター・デー(よき祖先の日)」だが、基本的にそれはいつでも構わない。「宗祖の法要に当てていく」というのは、お寺側のロジックの問題であり、一般の人にとっては宗祖の存在自体がほぼ無関係だから、それを打ち出す意味はない。

ただ、お寺側のロジックとして、「グッド・アンセスター・デー」を機縁として、宗祖に少しでも親しんでもらいたいという思いがあるのなら、そうすればいいということだ。お寺として、むしろお盆やお彼岸にそれを当てていくというのなら、それも良いだろう。

ただ一点、お盆やお彼岸は、「家族が亡き家族を弔う期間」として最適化されているケースがほとんどだろう。そうすると、家族を持たない人や、何らかの理由で一般的な家族の弔いに当てはまらない人にとって、参加しにくい雰囲気が生まれている可能性がある。そこを気をつける必要があると思う。

「グッド・アンセスター・デー」は、誰もが誰をも弔っていい日だ。

美空ひばりの出身地である横浜のお寺には、毎年、美空ひばりの命日に、ファンが集結するらしい。美空ひばり教のようなものだろうか。これはある意味、「グッド・アンセスター・デー」という入り口を経た後の、誰もが誰をも弔いたいときに弔っていいという文化がすでに根付いている世界観を、先取りしているとも言える。

「グッド・アンセスター・デー(よき祖先の日)」は、祖先に思いを馳せながらも、自分自身がよき祖先になるために、今をどう生きていくかを考える日でもある。「日本のお寺は二階建て」論における、死者供養の一階と仏道の二階が、そこでつながる。

今時なら、その対象は、ペットでも良いだろうし、二次元の人でも良いだろう。その人にとって本当に大切と思える亡き存在を、弔う権利は誰にでもあっていいはずだ。

コロナ禍で、グリーフケアで言う「曖昧な喪失」がますます増えている。職場の同僚がある日突然いなくなり、気づけば親族だけでの密葬が済まされていて、弔いの気持ちを向ける機会が奪われている。亡くなったという連絡だけは受けるけれども、どこか、本当に亡くなっているかどうか実感できないような、そんな喪失だ。

そんな人にとっては、コロナ明けに、「弔いなおし」というのが必要になるかもしれない。血縁に関係なく、縁ある人たちで語り合って、しっかりと弔う。そんな機会としても、「グッド・アンセスター・デー」は活きてくるだろう。


具体的なことは、他にもある。

ちょうど今週のテンプルモーニングラジオのゲスト、互井観章さん(東京都新宿区 日蓮宗 経王寺)のトークで、成年後見人制度の話が出てくる。


かつて、一族がより集まって村を形成し、3世代、4世代同居が当たり前だったような時代には、自分が死んでそのまま家の先祖になるという物語を、多くの人が自然に受け入れられたと思う。しかし今、超少子高齢化社会となり、人生100年時代を迎えると、例え子供がいたとしても、近くに住んでいるとは限らないし、必ずしも親の介護を子に期待できなくなっている。『仏説無量寿経』というお経の中に出てくる「独生独死 独去独来(どくしょうどくしどっこどくらい)」 が、いよいよリアリティを増してくる時代を僕らは生きている。

そんな中、任意後見制度を利用する人はこれからますます増えていくだろうと予想されているし、政府もそれを推進している。

▼ 厚生労働省HP「任意後見制度とは|成年後見制度利用促進のご案内」
(動画もわかりやすい)


この制度において、後見人は親族でない人が担うこともでき、実際、互井さんは近年、檀家さんの後見人としての役割を果たす機会が増えているという。その関係性にもよるが、判断力が弱っていく自分の後見人として、「菩提寺の住職」というのは自分だったら確かにかなり高い信頼度でお任せしたいと思える。性質上、横領事件なども起きやすい場面だが、その点、住職であれば流石にそういうことも少ない(ゼロとは言わないが)だろうし、そして何より、死後のことも含めてずっと頼れるような感覚が持てるからだ。自分自身、もっと歳をとって心配が出てきたとき、若いどこかのお坊さんに後見人になってもらえるなら、ぜひそうしたいという気がする。


グッド・アンセスターの発想は、ここにつながる。

「私」的領域が「家族」に閉じている場合、こうした事柄を家族以外の人に頼むということには、抵抗があるだろう。仮に、家族がいなくて家族以外の人に頼まざるを得ないという場合も、「普通は家族に頼むところを、その家族がいないから仕方なく」という、どこか残念さや後ろめたさを伴った形でその選択肢を選ぶことにならざるを得ない。

しかし、グッド・アンセスターの理念が十分に行き渡り、「私」的領域が血縁を超えた豊かな縁に拡張していたなら、血縁に拘らず「本当にこの人」と思える人に躊躇なくお願いできるようになる。誰もが誰をも弔える世界は、誰もが誰にも後見人を頼める世界でもあるのだ。住職が「拡張遺族」になるということは、そういうことだ。

グッド・アンセスターの発想は、遺贈のあり方も変える。

「私」的領域が「家族」に閉じている場合、遺産は親等にしたがって家族で分配するものでしかない。しかし、グッド・アンセスターの理念が十分に行き渡り、「私」的領域が血縁を超えた豊かな縁に拡張していたなら、血縁に拘らず「本当にこの人」と思える人や事業者に躊躇なく遺産を贈与できるようになる。誰もが誰をも弔える世界は、血縁にかかわらず未来に生まれる人類すベてが私の子孫となる世界であり、彼らのためによきレガシーを思うままに残せる世界でもあるのだ。

遺贈の発想は、ヒューマン・コンポスティングにもつながる。

ガソリンを使って遺体を燃やす火葬ではなく、堆肥となって土に還るヒューマン・コンポスティングを選択する心理の中には、自らの肉体を最後までオーガニックないのちの循環の中で生かすことができたら嬉しい、という気持ちがあると思う。それは、捨身供養にも通じるものだ。「私」的領域が人間界に閉じず、自然界にまで拡張するのが、ヒューマン・コンポスティングの発想とも言える。遺贈するものの中に、お金やモノだけでなく、自らの肉体が入ってくるということ。


こうした流れを受け、おそらく影響が出てくるのが、お布施のあり方だろう。

昨今、葬儀の布施が高すぎるとか、法外な戒名料を要求されたとか、「金銭トラブル」の話題として取り上げられることの多い「お布施」は、人々に寄り添う気持ちの強い一部のお寺では、たとえ喜捨(自発的な行為なので金額が決まっていない)の性質が薄まったとしても、金額明示の方向へ舵を切るところも出てきている。

しかし、今後、お寺の主な役割が「お経をあげること」ではなく「拡張家族・拡張遺族となって人の一生を支え、見送ること」へと性質が変化し、遺贈文化がこれまで以上に盛んになってくると、むしろ布施本来の喜捨のあり方の方が自然に受け入れられるようになっていくのではないか。

布施は本来、お金だけの話ではなくて、法施・財施・無畏施の三種がある。

今までは、布施といえば、法施するのが僧侶、財施するのが信者、無畏施はスルー、という雑な見方がされる場面も多かったように思うけれど、これからは、僧侶の役目は無畏施がメインとなり、財施は、単に信者がお寺に寄付をするということではなくて、遺贈によるコモンズ(共有財)領域の拡大のことを指すようになるかもしれない。きっとそのとき、法施も僧侶の法話ということではなく、もっとダイナミックな現れ方をしてくるのではないか。


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このnoteマガジンは、僧侶 松本紹圭が開くお寺のような場所。私たちはいかにしてよりよき祖先になれるか。ここ方丈庵をベースキャンプに、ひじ…

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