SINIC理論 / 道徳次元 / IDGs
オムロンの創業者、立石一真氏が提唱した未来予測理論「SINIC(サイニック)理論」に関する新刊が出て、その予測精度がすごいと話題になっている。
縁あって、SINIC理論を扱っているオムロングループの株式会社ヒューマンルネッサンス研究所の立石社長とゆっくりお話をする機会をいただいた。50年前に、かなり高い精度で現在の社会の様子を予測していたということで注目されているその理論によると、未来はこのように予測されている。
現在の日本は、情報化社会を経て、その次の「最適化社会」に入りかかっていると言える。そして、2025年からの「自律社会」を経て、2033年からは「自然社会」へと入っていくそうだ。
個人的には、この予測で描かれている社会の変化はとてもピンと来る。というのも、実際の変化は、2025年や2033年の元旦からスタートするわけではなくて、個々人のレベルで人によってかなり幅を持ちながら変化が進行し、結果的に社会全体の色がグラデーションのように変わっていくのが、社会変化のあり方だからだ。つまり、2023年時点でも、最適化社会を生きている人がいれば、すでにその次の自律社会に意識が移行している人、さらにはその先の自然社会にまで感覚を拡げている人もいるし、反対に、すでに終わりつつある工業化社会の意識に留まっている人もいる。
誰がいいとか悪いとかいうことではなく、社会を構成する人の意識に幅があること自体、健全なことでもある。
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工業化社会、最適化社会、自律社会、そして自然社会。
この流れを読み解く時、自然と思い出されるのが、鄭雄一先生の「道徳次元」理論だ。これまで関連するnote記事をいくつか書いたので、ぜひ読んでいただければと思う(2022.4.22/2022.5.17)。
道徳次元の理論で語られているのは、つまるところ、「仲間の範囲、”私”の範囲に注目せよ」ということだ。
道徳次元1では、人は他者の存在しない「私」に閉じている。
道徳次元2になると、他者との関わり合いの中での「私」を意識するようになる。
道徳次元3までいくと、特定の組織や集団に「私たち」として自意識を広げられるようになる。しかし、その外側は「私たち以外=敵」でもある。
道徳次元4に至ってようやく、「私たち」の外側の人を敵と見做さず、慈悲や利他心を持って人間同士があらゆるボーダーを超えて共存共生する道を、人間は模索するようになる。
道徳次元5は、鄭先生の本の中では語られていなかったが、「私たち」の範囲が人間だけでなく、動植物を含む自然や生態系全般に広がっていく(はず)。
この道徳次元の理論を用いるときに気をつけたいのが、「あの人は道徳次元1だからダメだ」とか、「自分は道徳次元4だから優れている」とか、人に対するラベル貼りに使うべきものではないということだ。そうではなくて、視点として大事にしたいのは、私という一人の人間の中に、あらゆる道徳次元が見出されるということ。
生まれたばかりの赤ちゃんのように脇目も振らず何か一つのことに夢中になっていることもあるし(道徳次元1)、誰かのことを好きになったり嫌いになったりすることもあるし(道徳次元2)、「うちの組織を良くしたい」とか「日本のために貢献したい」と思うこともあるし(道徳次元3)、宗教の枠を超えて尊敬や思いやりを持って異教の人と対話することもあるし(道徳次元4)、山や森に行けば大きな自然に包まれて存在している人間の小ささに思いを馳せることもある(道徳次元5)。
きっと本来、誰の中にも、道徳次元1〜5が見出される。ただし、その時代の社会のあり方や制度が前提としている人間観や世界観に引っ張られて、その表出が滞ってしまったり、無理やり偏ったものにしてしまったりという事態も、世の中にはたくさんあるのではないかと思う。
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SINIC理論と、道徳次元の理論。
両方を踏まえて、社会変革とは何かを考えてみる。
よく、社会変革とは、一人ひとりが変わることから始まる、なんていうふうに言われる。では、その「一人」が変わることって、なんだろう。
道徳次元1だった私が、道徳次元2になり、3になること、ではないはずだ。なぜなら、私の中に、道徳次元1〜5の全てがあるからだ。変わりうるのは、我が身に現れる道徳次元の幅がより広くなって、伸び伸びといろんな次元を行き来できること。
また、社会変革はもちろん「いまだに過去の工業社会の意識を引きずっている奴らは放っておいて、未来の意識にシフトした自分たちだけで新しい社会を作ろうぜ」というようなことでもない。地球は一つ。「私たち」の範囲を狭める排他的な発想の限界は、もうとっくに明らかになっている。
何かから何かに変わる、という、「何か」という一点を切り取るスナップショット的な発想から、そろそろ離れたい。私たちは常に変化し続けて、揺れ動いている。何か変わらない本質があってそれが表出しているというのではなくて、私たちは瞬間瞬間の変化そのものなのだ。
だから、社会変革とは、一人ひとりが変わることというよりも、ましてや変わらない人を変えていくことではなく、私たちの変化そのものなのだ。放っておいても変化していくものという意味では、何かことさらに手を加えようとする必要もないかもしれない。しかし、むしろ、もし真に皆がその変化に身を任せることができるならば、社会の変化はで自然の連続性の中で私たちを向かうべき先に運んでくれるはずのところを、どうしてもスナップショット思考の強い私たちは、その本来性を無視して目の前のことを切り取って価値判断し、固定的に一点に竿挿してしまうが故に、小さな傷が生まれ、それが時に大きな悲劇を引き起こす。
短期思考から長期思考へ、という話はわかりやすいので語ることが多いけれど、それと似て非なる、より本質的なシフトは、スナップショット思考から連続的思考へ、というところにあるように思う。
その点で、私は、視覚よりも音に注目している。音は、スナップショットでは意味を持たず、連続性の中で立ち上がるものだからだ。いや、カメラを悪く言いたいのでもない。視覚も他者とのつながりを感じる大切な要素ではある。しかし、あまりにも視覚優位のこの社会では、弊害も多い。だからだろうか、最近ご縁のある写真家の方には、静止画でもあえて動きを感じさせるような写真を撮る方が多いように感じる。
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