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古の智慧、死者のポリフォニー。

YGLの友人、市耒健太郎さんが、こんな場所を作ったので、先日遊びに行った。

とてもよい感じの場所でした。計画が立ち上がってから竣工までの間にコロナが発生するという大変な時期だったけど、逆にだからこそ生まれ、促進される創造性があると思うので、頑張って欲しいし、機会があったら自分もここで何かやってみたい。最近は、ゼミが始まった模様。興味のある方は、ぜひ。

Creativity=創造性に関して思うこと。「クリエイティブな人」が存在するのではなく、「創造性の源泉にアクセスできる人」が存在するのではないか。いや、それも少し雑な表現だ。より正確には、「創造性の源泉にアクセスできる縁が整う瞬間」が誰の身の上にも存在しうるのではないか、ということ。

先日、テンプルモーニングラジオの公開収録を初めて試みた。お相手は、いつもいろんな面でお世話になっている、横浜・妙法寺の久住謙昭住職だ。お付き合いの長い分、今までもたくさんの会話をしてきたけれど、やってみるとどんどん対話が進んで、あっという間の2時間だった。特に後半に進むにつれて、お互いにゾーンに入っていくというのか、オーディエンス(収録現場に来てくれた人も、放送を聴いてくれるリスナーの人も)のことがどんどん気にならなくなって、あたかも対話そのものが人格を持って主体的に展開していくような、そんな感覚になってくる。そういう感覚になれた時は、やっている自分の手応えも大きい。経験上、そういう時ってやっぱりリモートでなく対面でやっている時の方が、強い感じはする。

収録後、いつもラジオを聴いてくれているYuさんが、こんなことを言ってくれた。

「すごく良かったです。特に後半、内容も良いんだけど、久住さんが言っているというより、何かに言わされているような、そんな感覚がしました」

そんな話だったと思う。その感覚は、毎週トークをしている僕も、なんとなくわかる。手応えのあるときは、たいてい「いやー、始まる前は緊張しましたけど、話しているうちにどんどん喋っちゃって、気づいたら、思ってもみなかったようなことを話していました」と相手のゲストの方が感想を言ってくれることが多い。特に、自分がそうしようとしているわけではない。「こっちに持って行こう」という下心というのか、意図が出てしまうと、台無しになってしまうような気がしている。民芸的なものというのか、そこに作家性はいらなくて、何の意図もなく、奇を衒うこともなく、ごく普通の対話。

そこに、何か聖なるものがあるような気がする。

以前、三浦祥敬さんの企画で縁あってお会いした、オート・ポイエーシス研究で有名な慶應大学の伊庭先生の「パターン・ランゲージ」の論文を思い出した。

ざっくりいえば、古今東西、真にクリエイティブで偉大な作品というものは、作者個人の創造性から生まれるのではなく、人類の集合意識の底の方にある創造性の源泉のような流れから生まれる、という話。底の底にアクセスすると、キャラクター自身が語り出すらしい。そんな不思議な話が真面目に論じられている論文なので、興味のある人にはオススメしたい。

村上春樹氏や宮崎駿氏が作品の制作過程を振り返るインタビューなどを読むと、作品の作者が意図を持って登場人物に語らせるのではなく、登場人物が語り出す物語を記述していくような感覚になる様子が語られている。東北学の赤坂憲雄先生が宮崎駿の『風の谷のナウシカ』を巡って論考された『ナウシカ考』では、ドストエフスキー作品を論評したミハエル・バフチンの「ポリフォニー」という概念が援用されている。

ポリフォニーはもともと音楽の概念で「多声音楽」のことであり、そこでは「主旋律・伴奏といった区別は無く、どの声部も対等に扱われる」という。そんなポリフォニーが実は人類の集合意識の底に流れている、と言われるとなんだか不思議な感じがするが、しかし考えてみれば、僕らは街の雑踏に立てば通り過ぎる人々のポリフォニーに簡単にアクセスすることができるし、友人との何気ない対話もポリフォニーに違いない。エゴの働きによって自己を中心とするモノフォニー的な世界観に陥りがちなことも確かだが、じっと耳をすませてあらゆる人の声を素直に聞けば、そこにはポリフォニーが広がっていて、それがそのまま創造性の源泉となるのかもしれない。

Post-religionを語る上で、「古の智慧」とか「人類の叡智」に言及することがある。

その言葉を使いながら、自分自身「具体的にそれは何?」と聞かれると、うまく答えられないもどかしさを感じてきたが、このポリフォニーという概念を使うと、少しクリアになる予感がした。

現在の世界人口が80億とした時、過去5,000年のうちに生きた人間の数はその何倍にも達するだろう。音が波だとすれば、バタフライ効果を考えても想像できるように、彼ら彼女らの発した声は、一人漏らさず現代まで何らかの波として連綿と流れが続いているはずだ。中でも、その声を文字の形で本に残した人々の声は、今でもかなりはっきりと聞き取ることができる。本というのは、過去の人々がなんらかの形で残そうと努力した声の総体でもある。本は死者との出会いであり、開けばそこにポリフォニーが聴こえる。

「古の智慧」に触れるということは、どういうことか。本を読めば、博識になるかもしれない。でも、博識は知識の問題だ。教養はどうか。知識を総合して、あらゆる観点からより優れた判断ができる人が、教養人の一つの定義だろう。しかし、僕の中では「古の智慧」に触れるということは、それとは必ずしも重ならないような気がする。おそらく、知識や判断の問題ではなくて。死者の声を聴くというのか、死者の存在と共にあるというのか、これまで生きたあらゆる人のポリフォニーに身を浸すような、そういう感覚が「古の智慧」に触れるということではないかと思う。

ネットワークサイエンスによれば、同質性の高いコミュニティの中でどれほど多くの人に触れてもイノベーションは起きにくく、少数でも複数の異質なコミュニティをまたいで人とつながる人の方がイノベーションを起こしやすいといわれるらしい。ここでおそらく重要なのは、「つながり」のクオリティだ。どんなに異質な人と繋がったところで、SNSで友達になったくらいでは、イノベーションを起こすようなつながりにはならない。側から見て異質な人同士の繋がりだとしても、当人がモノフォニックな世界に閉じている限り、深い対話にはならないし、お互いに変化は生まれない。

本や記憶を通じての死者の声であれ、対話を通じての生者の声であれ、「どの声部も対等に扱われる」ポリフォニックな感覚に身を浸した時に、初めてそこに創発が生まれるのではないかと思う。

現代はハイパーコネクティッド社会と言われるけれど、僕らは思った以上にモノフォニックな世界に閉じて生きているのではないだろうか。

人類の集合意識の底の底に流れるポリフォニーから遠ざかって、氷山の上の浅いところで完結した日々を生きてしまっていやしないか。

親鸞聖人の和讃に「宮商(きゅうしょう)和して自然(じねん)なり」という言葉が出てくる。

 清風宝樹をふくときは
 いつつの音声いだしつつ
 宮商和して自然なり
 清浄薫を礼すべし

(浄土に清らかな風が木々の間を吹きわたるとき、宝石でできた木々の葉や枝を揺らし、五つの音が奏でられる。本来不協和音の宮と商の音も、そこでは素晴らしいハーモニーとなって聞こえる。煩悩に染まらない清らかな薫りに礼拝しよう)

思えばこれも、僕たちが住んでいる世界の本来的なポリフォニー性を示したものかもしれない。

「どの時代においても、人類は、恐怖、病気、苦悩、死に直面してきた。そして、文明を定義するのはいつも死との関係に他ならない。死に意味を付与することに成功すると、その文明は繁栄する。逆に、死に意味を見いだすことができないと、その文明は消滅する」と、フランスの哲学者、ジャック・アタリは言う。

生きている僕らは常に死者を通じてしか死を体験できないことを考えれば、死に意味を付与することは死者の声に耳を傾け、死者と対話することから始まる。

ただ、静かに耳をすませてみよう。

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